2013/12/17

嫉妬を感謝に変える その4


「あんな家に住めたら・・・!」


                                   Shalrla Fritz
                              

 
 
3.感謝することを実践する。

髪の毛がオレンジに変色するような家(その1参照)で葛藤を覚えていた時には、向こうの通りの豪奢な家をうらやんでいたので、決して幸せを見つけることはできませんでした。

しかし、現実として、あのような家は私には与えられていなかったのです。
私に与えられていたのは、いくつかのユニークな特徴を持つ、古い家でした。

私は開かずの窓や、じめじめした地下室に直面することを学びました。
そして、屋根のある家に住めることを神様に感謝することを実行しました。
この家のよいところを考えるようにしました。
暖かくて清潔で、私たちの家族が住めるだけの広さがありました。
広い庭があり、通りをはさんで子どもたちが喜んで遊べる公園がありました。


自分の思い通りにいかない時に感謝する、というのは、必ずしも易しいことではありません。
けれども、詩篇50篇23節には「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」とあります。

時には、感謝を述べることが難しく、犠牲を伴うことのように感じるかもしれません。
しかし、そうした時に、私は神様の備えとタイミングに信頼することを示し、救い主をたたえているのです。

今は別の家に住んでいますが、それでも時には不足を覚えます。
今でも、足りないものを思って幸せを感じられないことがありません。

でもすでに与えられていることに感謝を表していく時に、私は備え主をほめたたえ、神様と人生において与え続けられている恵みに心を向ける準備をしているのです。

神様が私が心から満足するものを与えてくださると信頼できるように祈っています。
私の羊飼いなる主が、私の目を開いて自分の人生に与えられた祝福を知り、葛藤に勝利することができるようにと願っています。


嫉妬がやってきた時には、再び戦います。キリストの満たしに満足して、不満に打ち勝ちます。
私の家や夫、子ども、働きについて、周りの女性たちの状況と比べないようにしています。
自分に与えられている祝福を数え、感謝をささげる時に満足がやってきます。

そして、豪華な家であろうと髪の毛が変色するような家であろうと、どこに住んでもキリストにある幸せと満足を見出すことができるのです。
 
 


嫉妬を感謝に変える その3


「あんな家に住めたら・・・!」


                                   Shalrla Fritz
                              

2.比較をしない。
 「ねたみとは、自分自身の祝福を数えるのではなく、他人の祝福を数えることである」と聞いたことがありますか?
通りの向こうにある家の立派な外観や、広く開きそうなすてきな窓を見、そして各階にあるであろう広いバスルームのことを想像したとき、私の幸せはしぼんでしまいました。
ねたみとは、自分自身が与えられている感謝なことに目をとめるのではなく、隣人が持っている物に注目するときに起こってきます。
パウロはガラテヤ人に宛てて、
「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう(ガラテヤ6:4)」と書き送っています。
自分がすでに与えられているものに感謝することはできても、自分の状況を他人を比較してもなお幸せでいる、というのは難しいものです。
なぜなら、自分よりも良いものを持ち、恵まれた状況におかれている人は必ずいるものだからです。
そして、ねたみを起こす時に、私の喜びは破壊されてしまうのです。
(その4 に続く)
  


嫉妬を感謝に変える その2

         「あんな家に住めたら・・・!」


                                   Shalrla Fritz
                              

 
パウロは嫉妬について、次のように教えています。
 
 
1.神が必要のすべてであることを忘れない。
 
 
ピリピ4章で、パウロは続けてこのように述べています。
 
「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
 
満足するための第一の秘訣は、キリストのうちにそれを見出すことだと、私は発見しました。つまり、私の必要をすべて満たしてくださる真実な神様に信頼する、ということです。
 
神様がいらっしゃるなら十分だ、ということを私は忘れないようにしなければなりませんでした。
広く開く窓よりも救い主を、広いバスルームよりも神に近くあることを、からっとした地下室よりも神様を求めることを学ぶにつれて、私はだんだんと満足を覚えるようになりました。
 
もちろん、今でも葛藤を覚えることはあります。
この地上では、神様を求めることよりも、多くの財産や大きな家の方が実際的な求めのように思えます。
けれども、私の羊飼いなる方に本当の満たしを見出し、必要を備えてくださる神様の知恵に信頼するとき、私は満足を得ることができるのです。
 
 
(その3 に続く)
 
 


2013/11/28

嫉妬を感謝に変える その1

                      「あんな家に住めたら・・・!」
                                 Shalrla Fritz
 
嫉妬とは、だれにでも起こりうる悪感情です。若い女性でも、中年でも、高齢でも。
嫉妬は、社会で重要な地位にある女性にも、家庭を守る主婦にも起こりえます。
そして、主の働きをしている女性でさえ、時には抱いてしまう感情です。

誰かが自分より有名だったり、成功したり、裕福だったりすると、ほとんどの女性はつい妬みを起こします。スキニージーンズを素敵にはきこなしている人を見ても、うらやましく思う人は多いのではないでしょうか。

献身している女性も、奉仕に伴う苦労を味わわない女性のことをうらやましく思うかもしれません。あるいは、自分よりもうまくいっている宣教の働きを見ると、妬ましく思うことがあるかもしれません。
とにかく、嫉妬はどんな人にも起こるものなのです。


私が嫉妬を覚えたのは、牧師の夫と私がシカゴ郊外の牧師館に初めて引っ越したときのことでした。

それまでは、いつも古くて味わいのある家に住めたらすてきだろうな、と思っていました。
けれども、この牧師館は、そんな言葉で言い表せるものではありませんでした。
築50年の古さからくる不具合に比べて、よいところは何もありませんでした。

私は不平を言わないでおこうとしました。
あまり魅力的でないこの家によいところがあるとすれば、いくつかの大きな窓からは外がよく見えました。ただし、ほとんどは開けることができませんでした。
2階のバスルームには、トイレ、洗面所、シャワーといった必要な設備が整ってはいました。しかし、非常に狭いスペースしかありませんでした。
キッチンにも機能的なコンロがありました。ただし、1970年代製のものでした。

とりわけ、じめじめした暗い地下室は最悪でした。
地下はこの家を建てた人が手で掘ったもので、天井が低く床が傾いており、地下とよべるものではありませんでした。
天井までは160~180センチしかなく、特に身長が180センチ以上ある夫にとっては苦痛でした。

そして、この地下室は水漏れがしました。
雨が降るたび、階下はミシガン湖のように水びたしになりました。
洗濯機のところに行くために、私は洗濯かごを抱えて水びたしの床を乗り越えなければなりませんでした。

洗濯といえば、この家の水がまた問題でした。
この家に引っ越すとわかった時には、井戸水だと聞いていたので
「井戸水だったら、心配ないわ」と思っていました。
私も井戸水を使う家で育ち、何の問題もなかったからです。
夫も洗濯機を据え付けました。

モンタナから数日かけて引っ越してきたので、私はぜひとも洗濯をしたいと思いました。

ところが白い衣服を入れたはずなのに、洗濯が終わってみるとオレンジ色になっているのです!
明らかに、水に多くの鉄が混入しているということでした。
私の頭髪にも影響がありました。
シャワーで髪をぬらしてシャンプーをすると、オレンジ色の泡が私の金髪から流れ落ちるのです!


このような古い家にいましたが、そんな時に1マイルほど離れた場所に新しい分譲地の開発が始まりました。
そこに建てられる家々は大きく、きれいで、レンガ造りのすばらしいものでした。
バスルームでさえ、私の家のリビングルームよりも大きいに違いないと思いました。

私は嫉妬を表面には出しませんでしたが、その住宅地を通り過ぎ、狭い我が家の駐車場に車を止めると、不満を感じたものです。
我が家とあの家々の違いはあまりにも明らかでした。
私の心に憤りのような苦い気持ちがわいてきました。


ある日、そんな思いの自分と葛藤しているとき、使徒パウロがピリピ書でこう述べているのが目に留まりました。
「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリ4:11)。

その時、これこそ私の生活に欠けているものだ、と神様が語っておられるのを感じました。
満足こそ、嫉妬に打ち勝つカギでした。

けれども、どのようにすれば満ち足りる心を養うことができるでしょうか。
私は、信仰の勇者であるパウロでさえ、満足を「学」ばなければならなかったということに励まされました。
なぜなら、私も同じように、苦い思いでなく満足を「学ぶ」ことが可能である、ということだと思ったからです。

では、パウロは満足を学ぶにはどうすればよい、と語っているでしょうか。
  
(その2 に続く)


2013/08/21

荒野を通る経験③

~砂漠でしか学べないこととは~(続き)

 
 
Liz Rhodebeck
 
 
 
 
 
 


 砂漠は、厳しさの中で忍耐する場所だ

北極気候の中で耐え抜くのと同じように、砂漠で耐え抜くには身体を絶えず保護していなければなりません。
日焼け、熱風、脱水は、凍傷や裸と同じくらい危険です。
装備を一瞬でも怠ると、身体は衰弱してしまいます。

しかし、砂漠気候に備えてきちんと準備し、薄い色の衣服を身につけ、帽子をかぶり、目を保護し、十分な水分を摂取するようにすれば、砂漠でも生きていくことができます。

地上での人生も霊的な危険に満ちています。
この世界で生きるとは、モラルの腐敗や多くの誘惑という気候の中で生きていくようなものです。
けれども、その中で神のみこころにかなった人として生きていくことは可能です。
適切なものを「身につけ」、祈りとみことばという栄養をとり、私たちを導いてくださる神様に信頼をおきつつ、正しいモラルに沿って一歩ずつ忍耐強く歩むという日々の努力によって、それは可能なのです。



砂漠は、生き抜くために一日のリズムに従うことが要求される場所だ。

ある写真家が砂漠の自然を撮影したいと思いました。
岩の下にいたヘビを引っぱってきて、撮影のために日なたの木につるしました。
撮影のために機材を準備したわずか10分ほどの間に、そのヘビは死んでしまいました。
その写真家は、午後の太陽の照りつけるところでヘビが生息できず、文字通り熱で「調理」され死んでしまうことを考えなかったのでした。
ヘビは涼しい日陰の岩陰に生息する性質があったのですが、愚かな写真家はヘビのいのちを守る環境を奪ってしまったのです。

砂漠には気温の上昇・下降の一日のリズムがあります。野生の生物はそれに適応して暮らしています。
もっとも暑い時間帯には、ほとんどすべての生物が何かの陰に隠れて休みます。
肌寒い夜になると、砂漠の動物たちは活動を始め、隠れ場から出てきて食物を探します。
もし午後の暑い日ざしの中で食物を探すなら、それは自殺行為といえるのです。

砂漠を旅する賢い旅行者も、同じようにします。
午後の暑いときには休息し、気候の穏やかな時間帯に移動をします。
砂漠の一日の気候サイクルを無視すれば、自分自身を危険にさらすことになります。
こうして制限のある環境下で過ごすことを学ぶのです。

同じように、神様も私たちがある環境の中で過ごすようにという範囲を与えておられます。
神様のみこころを無視するなら、快適さはなくなり困難の中に入ってしまうことになります。
砂漠のリズムに従うように、みこころのリズムに従うことで、私たちは平安に生きていくのです。

神様が私たちと交わりを求め、モラルのあり方を定めてくださったのは、私たちから何かをとりあげようとするためではなく、私たちが霊的な砂漠を安全に歩み、神様のそばを歩むためなのです。


砂漠への旅に出る。

私たちの多くは、実際の砂漠への旅はできないでしょうし、また砂漠で学べることを実際に体験して学ぶ必要もありません。
けれども、霊的あるいは心の中で砂漠への旅をすることはできます。
砂漠に行くようにただ一人になって離れ、神様と顔と顔を合わせることを求めるのは可能です。
それは自分自身の内面を静め、静かな砂漠で神様の声を聞く時間なのです。

どのようにしてそこへ行きますか?
何か決まったやり方を示すことはできません。
それは単なる願いだけではなく、ある種の「準備ができている」状態が必要です。

ちょうど成長したいと願う人が「オーケー、今日成長するから」と言うところを考えてください。
 成長には時間が必要ですから、そんなに簡単にはいかないでしょう。

砂漠に行くには、時があり、そして願いがあってのことです。
適切な時ならば、聖霊様が内面における砂漠に導いてくださるのです。
霊的な生活において快適さを求める以上の純粋な願いがあり、暑さに耐えるだけの忍耐があるなら、行くことができるでしょう。
砂漠で一定の期間を過ごしたならば、ヨハネやパウロが見出したような一つの目的を見出すでしょう。神様をより深く知り、自分自身をもより深く知ることができるのです。

砂漠に行って、そこで学んでください。


荒野を通る経験②



~砂漠でしか学べないこととは~(続き)

Liz Rhodebeck
砂漠は、隠された驚きと潜在的な力に満ちた場所だ。
ある古いロックの歌に「海はその底にいのちを秘めた砂漠だ」という歌詞がありました。
海面を見ているだけではわからない、海の豊かな生命について、つまり表面には隠された事柄について述べているのです。
海と同様に、砂漠も一見すると何もなく、生き物が存在しないように思えます。
しかし、ぱっと見ただけではわからないことがあるものです。
驚いたことに、砂漠にはその気候に適した動物たちが生息しているのです。
多くの種類の昆虫、鳥、爬虫類、哺乳動物たちがよく見ると砂漠には満ちています。
穴や岩の洞窟などに隠れてはいますが、そこには確かに生態系が存在しています。
私たちも、一人ひとりが隠された能力を持っています。
普段は、限られた側面からしか人生や霊的状態を見たり判断したりしていません。
そのため、常識では測れない、隠された宝を見逃してしまっています。
神様は、時に私たちが「自分はこの程度だ」と思いこんでいる以上のことをする機会を与えてくださいます。
砂漠で自分を観察することは、隠されていた新しい生き方と賜物を見つけることになります。
砂漠は、耐えがたい気温になる場所だ。
ほとんどの人は、砂漠とは乾燥した、高温の気候であると思っています。
たしかに40度を越えるような高温になりますが、夜にはとても寒くなることをご存知でしょうか?
昼と夜の気温差は50度以上にもなるのです。
この日々の大きな変化にはどんな人でも気付くでしょう。
変化に対応するためには適切な服装や防備が必要になります。
快適な気温になるのは一日のうちわずかな時間です。
その他の時間は暑すぎるか寒すぎるかのどちらかです。
神様の前で改めて自分自身を静かに見る時、私たちにはよい性質も悪い性質も極端である、ということを示されます。
私たちには長所があるかもしれませんが、弱さがあるのだと正直に認めるところから成長が始まります。
人間の性質はさまざまですが、多くの人は短所や誘惑にきわめて弱い部分を見ないでおこうとします。
平凡な性質をもったところだけを見て、直面すると痛みを感じるような自分自身の現実には向かおうとしません。けれども、それが霊的に成長するためには必要なのです。
肯定的にいえば、砂漠とは新たな使命をいただき、心にあるビジョンが明らかになり、それらを成し遂げるために必要な神様の助けに信頼することができるようになる場所です。
(続く)

JBU2013 夏号より    Copyright 2013 Liz Rhodebeck. . Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045


荒野を通る経験①

                              ~砂漠でしか学べないこととは~

Liz Rhodebeck


 砂漠で休暇を楽しむのが理想的だ、という人はおそらくいないでしょう。
もっとも砂漠といっても、人工的に作られたラスベガスのような場所に遊びに行くとか、仕事があるというなら、行く人がいるでしょうが・・・。
一般的にはゆっくりとリラックスできるグランドキャニオンや森林とは違い、風景やキャンプを楽しむために砂漠に行く人はいません。
しかしながら、聖書的な視点から言うと、砂漠で過ごすことには意味があるのです。

いくつかの例をあげましょう。バプテスマのヨハネは成人期をユダヤの荒野でメッセージを語って過ごしました(マタ3:1-6、ルカ1:80、3:1-6、マコ1:1-6)。
イエスはバプテスマを受けてから、ひと月以上荒野におられました(マコ1:12-13、ルカ4:1-2、マタ4:1-2)。
使徒パウロは改心後、アラビヤの砂漠で3年間を過ごしました(ガラ1:17-18)。
神の民は世代が入れ替わるまで、荒野をさまよいました(出エジプト記)。

なぜ砂漠なのでしょう?
その目的はなんだったのでしょうか。


砂漠とは、他者と切り離されて孤独になり、神と顔と顔を合わせて向き合う場所です。
聖書学者の中には、パウロは荒野で神ご自身から福音理解を与えられた、と考える人もいます。
他の弟子が教えたというよりは、使徒の務めに必要な資質は主と向き合うことで備わった、というのです。

イエスは公生涯に入る前に、砂漠で試みを受けました。これは準備の時であり、ここで父なる神のみこころをよりはっきりと確信するに至ったのでしょう。天使が来て仕えたとはいっても、イエスはサタンの誘惑に人間としても立ち向かわねばなりませんでした。


では今日、私たちが砂漠に行くのにはどんな意味があるのでしょうか。
砂漠に行くことは、日々のデボーションや毎週の集会に行く以上の意味を持ちます。
1日1章を読む、とか、セミナーに参加する以上のことなのです。
それは神の前に、私たちの人生がどうであるかを詳しく点検する時です。
邪魔や雑用、クリスチャンはこうあるべきという思い込みから離れる時なのです。
それは緑に囲まれた静かですてきな場所に行く以上のことなのです。


それでは、砂漠でしか学べないこととは何でしょうか?(続く)






JBU2013 夏号より    Copyright 2013 Liz Rhodebeck. . Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045

2013/06/04

働き人に必要な能力?

Kate Motaung

 私は会場に通じる二重の扉を開け、中をのぞいてみました。知っている人が何人かいましたが、ほとんど初めての人ばかりでした。

働きの経験豊かな人ばかりなのに、私はほんのアマチュアでした。参加していたのは牧師夫人か女性の働き人でした。・・・

私は宣教に携わる女性のための週末リトリートに来ていました。でも、本当のところは、自分が来たかったのかどうかもわかりませんでした。

各セッションの後、それぞれがテーマに関して小グループでの分かち合いをしました。話し合う中で、私は自分だけが悩んでいるのではない、と知って驚きました。

「教会で私が何をしているのか、と尋ねられるのがこわいんです。」
「皆が私を批判しているみたいに感じます。だって、私はこの働きには力が不十分なのですから。」

驚いたことに、リトリートの間、こうした言葉があちこちで聞かれました。
私自身もよく似た思いを抱いていましたが、そんなことを考えているのは自分だけだろう、と思っていました。

私は思いました。

「どうして、私たちの多くは自分が不十分だと感じるのだろうか?
どうして、私たちの多くがこの働きをする能力がないと感じるのだろうか?
どうして、私たちの多くは自分の働きについて、他の人から評価されるのを恐れるのだろうか?」

セッションの中で、みことばを通して、この不適格だという思いへの適用が直接的に語られ、心に深くとどまりました。リトリートに参加して、私はいくつかの原則に心を打たれました。

フルタイムの働き人かどうかにかかわらず、私たちに必要な能力は自分ではなく、神ご自身から与えられること、そして、それは私たちの問題ではなく、神ご自身に関することだ、ということを改めて確認し、励まされたのです。


 必要な能力は神からくる

 宣教の働きにおいて陥りがちな思いは、私たちが何か資格や認証を得れば働きが進んでいくのでは、と思うところにあります。
ここから生じる危険は、私たちが自分のしたことについての成功や失敗を気にし始めてしまう、ということです。
宣教の働きに必要な力は神おひとりから与えられるものだ、という事実を受け入れるなら、私たちは働きの成功は自分にかかっている、という思いから解放されるのです。

神おひとりだけが私たちをふさわしく整えてくださいます。自分の自信ではなく神を信頼することを学ぶなら、神だけが栄光をお受けになります。そして、他の人が自分のしていることをどう思っているか心配しなくてすむようになるのです。


私たちの問題ではない

かかわっている働きの成功は、私たちの功績ではなく神がなされることだ、ととらえると随分楽になります。
私たちの多くが、人数で働きの成果を図ってしまいます。
でも、第一コリント1:22-24を見ると、パウロは、証しをしても人々が無関心なのは彼が不十分だからではなく、サタンが人々の目をくらましているのだ、と述べています。

私たちには人々を連れてくることもできなければ、人々の心を変えることもできません。
ただ聖霊だけができるのです。

第二コリント4:7は、「 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」と言っています。
土の器それ自体には価値がありません。価値があるのは福音そのものであり、私たちや私たちの犠牲は関係ないのです。
神様はいつでも好きな人に働きを任せることができるにもかかわらず、驚くべきことにご自身のご計画を成し遂げるために、私たちを選んでくださったのです。


主をおそれる

パウロは人に対してではなく、全能なる主に対して弁明する責任があると知っていました。
私たちには、友人や教会の役員会や教団の理事会の前に立って弁明する日は来ないでしょう。そうではなく、いつの日かキリストご自身の前に立つ日が来るのです。

宣教の働きに携わる私たち女性は、他人からいつも批判的な目で見られていると感じがちです。
神様は私たちが「十分」やっていると言われたいというプレッシャーを感じていることを理解しておられます。
しかし、十分かどうかは私たちの問題ではなく、働きの能力があるかどうかも私たちの問題ではありません。
それは、神様がご自身の栄光のために私たちを通してどう働かれるかに関することなのです。





身の回りの不用品を整理する!

Eileen Koff, CPO




夏がきました。ゆったりと過ごせる季節です。

・・・が、子どもたちは家の中ではしゃぎ回り、洗濯物は山積みになっています。経済的にも前ほどゆとりがありません。気付かないうちに、顔には新しいしわができています。

イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:30)と言われました。

確かにそうです。
イエス様のことばのとおり、夏場は普段の生活のペースを落として、じっくり考えることができます。
 夏休み中の子どもたちと、外出できる時でもあります。

もっとも、家の中の散らかり具合はどうしようもありません。


でも心配しないでください・・・神様はあなたと共におられます。プロのオーガナイザーが実践しているコツをお教えしますから、夏の暮らしをもっと楽しんでくださいね。

まず今日一日のことだけを考えてください。
この先の人生すべてにわたって「いつもきちんと整理しなきゃ」と思わないように。
以下を心にとめてください。




1 計画する。

整理を始める前に計画をたてましょう。まず、何が不要なのか見極めましょう。

家じゅうを見渡して、不用品を整理すべき所をリスト化しましょう。
ベッドの下や薬の引き出しなど、すぐには見渡せないところも含めてください。
必要なら、整理の大変さに応じて「大変」「まあまあ」「容易」にランク分けしてもよいでしょう。
子どもたちにも手伝ってもらって、楽しくやりましょう。


2 モノを定位置にもどす。

「この24時間は、モノを出しっぱなしにせず、元あった位置に戻す」と決めます。

忙しくてそんな暇はない、と思いますか?
行方不明になったモノを探す時間は、モノを元あった位置に戻すよりも常に長くかかるのです。
それぞれのモノに定位置を与えましょう。

神様があなたの生活に与えてくださったものを、持ち物を含めて大事にし、感謝してください。
家族でゲームのようにしながら進めると、家族全員がモノをどこにしまえばよいのかわかります。


3 部屋の一箇所ずつ片付ける。

やることが多すぎる、と感じるでしょうか?どこから手をつけてよいのかわからないのかもしれません。
キッチンタイマーを15分にセットして、部屋の中の一部分に集中して片付けましょう。
毎日これを続ければ、1週間で2時間弱も、片付けのために時間をとることができます。


4 モノを減らす。

「いつか使うかも」ととってあるモノを使うか、冷静に考えてみましょう。
そうしたモノは処分し、同じようなモノをとっておかないようにしましょう。

「いつか」は永遠にやってきません。そのためにとってあるモノは、家の貴重なスペースを占領しているのです。


5 予備は適正な量にする。

予備のモノは、それを最も使う場所で保管しておきましょう。オーガナイザーたちはこれを「使用する場所に置く」システムと呼びます。

たとえば、キッチンのごちゃごちゃの引き出しに電池が入っているのを想像してください。
キッチンの貴重なスペースを電池入れにするのではなく、電池はたとえば玄関ホールのように、家の中央付近にしまっておきましょう。
家の中央にあれば、ペンやクレヨンや紙でごちゃごちゃしている引き出しから探し出すよりも簡単に見つけることができます。


6 ラベルを活用する。

ラベルをつければ、何がどこにあるのか一目瞭然です。頭の中に記憶しなくても大丈夫です。


7 一つずつ家事を完了させる。

洗濯は、衣類をたたみしまったときに完了します。洗濯機のコーススイッチが切れた時ではありません。
それぞれの家事を完了させる習慣を身につけましょう。
未完了の家事はストレスの元になります。顔のしわが増えますよ!


8 買う時はよく考える。

買う前に、本当にそれが必要なのかよく考えましょう。
これからのあなたの生活に継続的に役立つモノか、自問してください。


9 身の回りを整理することは、内面を整理することである。

あなたの暮らす環境は、あなたの内面の心の様子を表しています。
身の回りを整理するにつれて、内面もすっきりと整理されてくるでしょう。
私が家から50ポンドの不用品を処分した時には、実際に体重もいくらか落ちました。


10 不用品は「決心の先延ばし」でしかない。

身の回りをすっきりさせ、整理をすると、今日決意し約束してください。

夏はゆったり生活する季節で、体力を温存し平安の中で静まる時でもあります。
数時間、メールや携帯電話に反応しないことにすると、生活の中でバランスを取り戻すための貴重な時間を確保することができます。
夏場は日が長いので、少し予定を立てておけば、片付けをしてからでもビーチに遊びにいくことができますよ。


 私たちの神は秩序の神です。秩序とは、愛の表れです。夏、秋、冬、春の順番もそうですね。

子どもたちにもすすんで手伝ってもらいましょう。
子どもたちも、大切な生活スキルを学ぶと同時に、親子で共に取り組む楽しい時間を過ごせることでしょう。
終わったら、アイスクリームを食べるとか自転車に乗るとか約束をすれば、家の片付けをやりきった喜びもひとしおですよ!




2013/02/23

ジャーナル入門(Journal 101)



ジャーナル(日記、日誌)で、あなたの霊的生活が変わります。




 
by Elisabeth K. Corcoran



私は高校生のころからジャーナルをつけています。
それらは全て、今も手元にあります。お気に入りの棚にしまってあって、時々取り出しては眺めています。
自分が若くて未熟だったことに笑える時もあれば、涙が出てくることもあります。
自分がかつてどんな少女であったか、そして今のような成人の女性にどのように成長したのかということに驚きます。
読み返すと、現在の自分はその当時からは想像できない状況にあります。

けれども、どのページをめくっても、そこには同一人物の自分がいるのです。



始め方

・自分のためにすてきなノートを手に入れ、お気に入りのペンか鉛筆を見つけましょう。あるいは、パソコンのワードを利用しましょう。
どちらにしても、自分の一番気に入ったやり方でするのがうまくいきます。

・少し時間があれば、特別な演出をしましょう。キャンドルを灯したり、静かな音楽をかけたり、コーヒーや紅茶を自分のために入れたりしてみましょう。




何を書くのか

・神様への手紙。なんでも、どんなことでも伝えてみましょう。

・子どもへの手紙。私は2人の子どもそれぞれにあてたジャーナルを書いています。成長したらそれを渡そうと思っています(実際には、以前の方が今よりも頻繁に書いていましたが…)。

・忘れたくない子どもの面白い言葉

・聖句を書き、自分の生活にどのように適用するか神様に尋ねる。

・創造的なアイデアや計画を心にある大きな問題への解決法を思いつくまま書き出す。

・人間関係のトラブルにおいて、自分の立場を明らかにする。

・腹の立つ人に宛てて手紙を書く。怒りを発散するために。でも、それを実際に送ることはしない。

・祈りの課題や答え。ジャーナルは神様の御手が人生にどう働いたかを記録する美しい方法です。

・好きな引用句。

・読んでいる本の一節。

・教会のメッセージの一節。

・目標とそれに至る過程について、実現のために書く。そして、実現した後、どのようになったかも書く。

・メリット・デメリットを書き出して意思決定をする。

・家族の歴史。



覚えておきたいこと

・ジャーナルは非公開のものです。正直になって、心にあることをそのまま書きましょう。自分を偽らないこと。あなたと神様のためのものですから、他人が見る必要はありません。神様はどんなことでもご存知ですから、ジャーナルは自分のありのままを出せる場所なのです。

・集中するのが難しいことがあります。立ち上がって気になること(例えば「サラが靴下がほしいと言っていたけれど、あるかどうか確認しなくちゃ…」といったこと)をする代わりに、その日のジャーナルのページの上の余白にメモして、後で終わってからTo-doリストに加えます。

・私は、年末に1年分のジャーナルを読み返すのが好きです。(1年間、毎日きちんとジャーナルをつけると、読み返すのに9時間くらいかかります。読み終わるまでに疲れるほどの量です。)

それでも私がこのことを興味深くしている理由は、かつて1日単位では見えてこなかった、生活の疲れの原因となっているものを見つけることができたからです。
ジャーナルを読み返すことで、私は仕事をやめてフリーランスになり、執筆や講演活動に力を入
れるという決断をすることができました。
ジャーナルを読み返すことがなければ、私にこの決断ができたかどうかわかりません。




ジャーナルは重荷にならないことが望ましいです。最終目標は、単に毎年いっぱい書かれたたくさんのノートを所有ことではないのです。
人生の訓練はすべて、そのノートでおさまるわけではありません。

一般的に言って、きちんと続ける人は、それがとても楽しいから続けているわけではありません。
けれども、自分の思いを文章にすることはとても報いのあることです。劇的に報いがあることです。

ページの終わり、段落の区切り、あるいは文の終わりに来る時、書き出して見るまでは気づかなかった、自分のあることへの本当の気持ちに初めて気づきます。

それはまるで、自分の本当の気持ちを別の自分が傍受しているかのようです。パーカー・パーマーは「あなたの人生が話すことを聞け」と言いました。

ジャーナルから何かを得るまで、書くことを楽しみなさいというつもりはありません。
少しずつ始めて、あなたのやり方に合うか確かめてください。
それから、人生の苦しい時期、幸せな瞬間、そしてその間のすべてのことについて、心と魂の気づきを味わってください。



Intentional Living:神の計画を意図的に生きる(5)

5 ふりかえり、 再評価し、 選ぶ。 主とともに歩みながら、目標を設定し、毎日のよい習慣を実践してください。 途中で立ち止まり、熟考し、再評価し、選択することです。 Intentional living は、大陸横断紀行によく似ています。 走行中に車を停め、燃料を補給する必要があ...