2015/10/20

バランスのとれた生活とは(全文)


 
 今日、天の父があなたに求めておられることは何ですか?
 
 
 
Jill Briscoe
ジル・ブリスコー 
 



長男が33歳になった時、ああイエス様はこの年齢で死なれたのだ、と改めて実感しました。「33歳」とはあまりにも若いです。
そんな若さで人生を終えるというのは、普通はととのった生涯とは思えないのですが、いかがでしょうか。
けれども、地上での生涯の終わりに、イエスは「(天の父の使命を)完了した」と言われました。

33年のうち30年間は、イエスはナザレで「仕事」をしておられました。
それも、効率のよい人生の過ごし方とは思えませんね。
しかし、ナザレでの30年間は、神様が計画されていた期間であるがゆえに、非常に大切な年月だったと言えるのです。
30年間、御父がイエスに望まれる第一のことが、そこで過ごすことだったからです。

「やり遂げる」というのが、あれもこれも全ての分野、領域のことをこなすことでない、と知るとほっとします。
むしろ、神様が私たちにしてほしいと願われるのはどの分野のことで、どの仕事をきちんとやり遂げるのかを見出すことなのです。

一人ひとりに異なった仕事があり、神様は私たちがそれをできるよう、あらかじめ備え助けてくださるのです。
たとえ、それが人生のほとんどを「ナザレで過ごす」ようなことだったとしても・・・!


覚えておいてください。御父があなたに与えられたことに目をとめていさえすればよいのです。
他の人がすることを代わりにすべきではないのです。
さあ、あなたにとって御父からの仕事とはなんでしょうか。

長年、私はどう優先順位をつけたらよいか、さまざまな本を読んできました。
ある本には、「第一に神、第二に家庭、それから教会」と書いてありました。
また別の本には「第一に教会、第二に家庭、そして神」というものもありました。
私自身も、優先順位に関する記事を執筆してきました。
それぞれの説がどれも聖書的なので、どの立場もとってきました。

そして、この年齢になって出た結論は、神様への愛を、他のすべてへの愛よりも優先させる、ということです。
つまり、優先順位の原則とは、御父と御国のことを第一にすることです。
御国の仕事が最優先です。
「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6:33)なければならないのです。
すなわち、神が今日は第一にせよと言われたことを、今日は最優先にしなければなりません。

もっとも、今日は最優先であったことが、明日あさってには最優先ではないかもしれません。
でも今日一日のことだけを心配すればよいのです。
神様の優先順位が私たちの優先順位でもあるべきでえす。

だから、もしかすると御父は「今日あなたが最優先にするのは、子どもと家にとどまっていることです」と言われるかもしれません。それなら、そうします。

あるいは、「今日は他の人に子どもの世話を任せて、あなたはバイブルクラスを指導しに出かけなさい」、「出ていってあれとこれとをしなさい」と言われるかもしれません。
御父がそれを今日最優先にせよと言われるのなら、そうします。

でも、神があなたの隣にいる人に、まったく別のことをせよと言われていても、驚かないでください!

だいたい、神が私たちに同じことを願われると思いますか?
私たちはそれぞれとてもユニークに造られています。
また、人生の異なる段階を歩んでいます。
責任もそれぞれ違います。
だから誰かを見て「あの人はこれを第一にすべきなのに」と言うべきではないのです。
だって、他の人にとっての最優先はわからないのですから。
ただ、自分はどうかということを知っていればよいのです。
 
 
 
「イエス様が一番、そうすれば他のこともうまくいく」

もし神様があなたに、何を、いつしてほしいと願っておられるかを理解したなら、すべてのことが整理されてきます。
私の友人の一人は「イエス様を第一にしたら、次に何がくるかわかりますよ」とよく言います。
その通りです。

しかし、そうした満ち足りたライフスタイルの中でも、ストレスはやはりあります。
ほとんどのストレスは、あなたのしていることを批判されることからやってきます。

宣教師として14年、牧師夫人として21年の生活を振り返ると、周りのクリスチャンからの批判は、私にとって最も辛かった(現在でも辛い)です。
神様を第一にしてせっかく得られた良い結果にもかかわらず、そうした反対意見の中での生活はあなたを疲弊させるのです。

批判を受けながら過ごすのは容易ではありません。
それは教会内での反対意見であったり、家族内での反対であったりします。
イエス様もその両方を経験されました。


私は、子どもが18歳、16歳、14歳だった時のことを思い出します。
夏の間、18歳のデーブはアルバイト、16歳のジュディは友達のところに泊まっていました。
夫のステュアートと私は宣教旅行で南アフリカに行く予定でした。

一番下のペートは、その間実家のあるイングランドに行くのがよいと、私たち夫婦は考えました。
そこまで私が連れていって祖母と会い、それから南アフリカで夫と合流する予定でした。

私はいつも異なる5つの方向へ自分が引っ張られているように感じていました。
特にその夏は。
このように思ったのを覚えています。

「いったい、誰のために時間を使えばよいのだろうか。
子どもたちか、夫か、自分自身か。一番はどれだろう。
夫の留守中、教会で奉仕をするのがよいのか。
そうそう、私の母はどうだろう。
何千キロも離れているし、あまり体調もよくない。」

私は、神様が何を第一にするように言われているのかを知ろうとしました。
祈りを重ね、夫と共に宣教旅行に行くのがよいという結論に至りました。

そこで、イングランドに立ち寄り、母としばらく会い、そこにペートを残して南アフリカに行くことにしました。
母とペートと私とで、2,3日の素晴らしい時間を過ごしました。

ところが、南アフリカに出発する日の前夜、ペートが部屋に来てベッドに座り、泣きだしました。
そうして「お母さん、行かないでちょうだい」と言いました。

まあ、どうしましょう!


「ねえ、行かないで。お願い」と、息子は何度も頼みました。
「ママがいないなら、ここにいたくない。
だって思っていたような場所じゃないんだもの。
ここで待つのはいやだ。僕もママと一緒に連れて行って。」

「ペート、それはできないわ。だってあなたはビザ(査証)も持っていないんだもの。
それに、もし持っていたとしても、あなたを連れて行くことはできないの。
ここにとどまることもできないわ。
ママは行かなければならないの」と私は答えたのでした。

私はちょうど、出エジプト記を読んでいました。
昼は雲の柱が、夜は火の柱がイスラエルの民を導く、という箇所でした。
家族連れは、そんな中をどう感じながら暮らしていたのだろう、と考えたものでした。

おそらく、雲の動きにかなりうんざりしていたのではないか、と想像します。
なぜなら、家族全員がやっと寝袋を並べ、テントを張った時に、
雲の柱が再び動き出す、ということがあったと思うのです。

父親の「あれまあ、また移動だ!」という声が聞こえるようです。
母親は「せっかく子どもたちを寝かせたところなのに」と言ったかもしれません。
「さあ、子どもたちを起こして着替えさせるんだ」と父親が声をかけたでしょう。
雲や火の柱は、イスラエルの人々に「従順」を学ばせたに違いありません。

自分の聖書のその箇所の余白に、「子どもたちへの祝福は、親に従順であることからくる」と私は書き込んでいました。
それも、ちょうどペートが部屋に入ってくる直前に。

だから、この場合何が最優先であるか、私にはわかっていました。
南アフリカへ宣教に行くことです。
しかもその聖書箇所だけでなく、さまざまな状況からも確信がありました。
そうすることが正しいとわかっていました。

でも、それがいかに辛いことだったか、わかっていただけるでしょうか?
ペートがどのような状態で過ごすだろうかということが脳裏を横切りました。

ペートは乗りきれるだろうか。
親に見捨てられたと思うだろうか。
神様はひどい、と腹を立てるだろう

私は重い気持ちで5週間の宣教旅行に出発しました。

2週間後、ペートからの手紙が届きました。
封を開けてみると、このような文面でした。

~ママ、そして↑(上向きの指のイラスト)ありがとう。
僕は元気です。その後、僕がどう過ごしていたと思う?
泣いてママを見送ったけど、すぐに涙をふいて従兄弟とフットボールをしたよ。

シャーリーおばさんには、僕がしょんぼりしているのがわかったと思う。
「ペート、あなたが小さいころよく行ったカンファレンスセンターに連れて行ってあげましょうか」
と言ってくれたんだ。~


言い添えておくと、彼女は私たちの説教をほとんど聞いたことがありませんでした。
私たちが何をしているのかも、あまり知らなかったのです。
でも、彼女はその時、私たちが以前仕えていたキリスト教団体のところへ連れていってあげようか、と言ってくれたのでした。

それだけでなく、彼女は自分の子どもも一緒に連れていくことにしたのです。
ペートは出かけるうちに少しずつ元気を取り戻しました。
現地に着くと、リーダーが子どもたちに声をかけてくれました。
そして、3人の子どもたちは信仰について学び、受け入れたのです。
ペートもそこで起こったことを目の当たりにすることができました。

神様に従順であろうとして痛みを経験し、その後でこんな手紙を受け取るとは、
とても想像できませんでした。
みことばの約束がもう一度浮かんできました。
子どもたちの祝福は、両親に従い、主に礼拝をささげることである、と。


もちろん、いつも母親や父親が子どもを置いて行くのがよい、と言っているのではありません。
神様が「南アフリカには行かず、イングランドにとどまっていなさい」と言われる可能性もあるでしょう。
その場合には、別のところで葛藤を覚えることになるでしょう。
夫に電話して、私が担当するはずだった集会奉仕をすべてキャンセルしてもらうことになるでしょう。
私は「それでも、今は御父が子どものことを最優先しなさい、と導いておられるの」
と話したことでしょう。


周りの人をがっかりさせるというのも、勇気のいることです。
特に、愛している人々をがっかりさせるのは。
どうしてよいかわからない時には、神の助けを求めてください。
神様は、あなたに最善の道を示そうとしておられます。
そして、あなたがその道を選び従うなら、神様はあなたの従順を喜ばれます。



 
役割は変化する
 
いつも同じことをシステムとしてこなせばよいなら、どんなに楽でしょう。
それなら葛藤は生じません。
この本にはこう書いてあり、あの人はあのように言い、またメッセージではこのように語られている。
私たちは文化的・キリスト教的なならわしや、これまで学んできた人や物事のパターンに従って行動しています。
 
けれども、「主よ、私が母として、妻として、またあなたの弟子として、
すべての役割の中で、今日は何をすべきか、あなたは示してくださいます」
と祈るのはそれよりも難しいことです。
 
イエス様はどうなさったでしょうか。
 
30年間、ナザレで家族の必要を第一に満たされました。
それから3年間宣教されました。
永遠に続く神の家族の関係が、その期間は優先でした。
母親の世話を他の家族に任せなければいけなかったのが、イエス様にとって最も気がかりなことの一つだったでしょう。
 
それから、十字架にかかられ、やはり母親の世話を誰かに託さなければならなかったのです。
イエス様がどんな思いだったか、想像できますか?
長年の間自分がしてきたことを、十字架にかかりながら他人にお願いしたのです。
その十字架も、自分が降りようと思えば可能だった道でした。
 
十字架にかかるのを中止しようと思えば、いくらでも理由をつけることはできたでしょうし、
特に母親のことを考えれば、それももっともだと思えました。
ある意味で、イエス様は御国の家族のために、地上の家族を見捨てなければならなかったのです。
厳しい試練を自ら通られたのでした。
 
イエス様はヨハネに「そこにあなたの母がいます」、
マリヤに「そこにあなたの息子がいます」と言われました。
 
その時には、御国の家族の関係が最優先されたのです。
なぜなら、御父がそれを願っておられたからです。
イエス様は御父が第一にするよう言われたので、十字架の上にとどまられたのです。
 
似たようなことが、あなたの人生にも起こるかもしれません。
私たちはふさわしい時、正しい時を知り、従順を学んでいきたいものです。                                                
    

バランスのとれた生活とは ~その5~

Jill Briscoe
ジル・ブリスコー 
 
役割は変化する
 
いつも同じことをシステムとしてこなせばよいなら、どんなに楽でしょう。
それなら葛藤は生じません。
この本にはこう書いてあり、あの人はあのように言い、またメッセージではこのように語られている。
私たちは文化的・キリスト教的なならわしや、これまで学んできた人や物事のパターンに従って行動しています。
 
けれども、「主よ、私が母として、妻として、またあなたの弟子として、
すべての役割の中で、今日は何をすべきか、あなたは示してくださいます」
と祈るのはそれよりも難しいことです。
 
イエス様はどうなさったでしょうか。
 
30年間、ナザレで家族の必要を第一に満たされました。
それから3年間宣教されました。
永遠に続く神の家族の関係が、その期間は優先でした。
母親の世話を他の家族に任せなければいけなかったのが、イエス様にとって最も気がかりなことの一つだったでしょう。
 
それから、十字架にかかられ、やはり母親の世話を誰かに託さなければならなかったのです。
イエス様がどんな思いだったか、想像できますか?
長年の間自分がしてきたことを、十字架にかかりながら他人にお願いしたのです。
その十字架も、自分が降りようと思えば可能だった道でした。
 
十字架にかかるのを中止しようと思えば、いくらでも理由をつけることはできたでしょうし、
特に母親のことを考えれば、それももっともだと思えました。
ある意味で、イエス様は御国の家族のために、地上の家族を見捨てなければならなかったのです。
厳しい試練を自ら通られたのでした。
 
イエス様はヨハネに「そこにあなたの母がいます」、
マリヤに「そこにあなたの息子がいます」と言われました。
 
その時には、御国の家族の関係が最優先されたのです。
なぜなら、御父がそれを願っておられたからです。
イエス様は御父が第一にするよう言われたので、十字架の上にとどまられたのです。
 
似たようなことが、あなたの人生にも起こるかもしれません。
私たちはふさわしい時、正しい時を知り、従順を学んでいきたいものです。 
(完)      


   

バランスのとれた生活とは ~その4~

Jill Briscoe
ジル・ブリスコー
 
 
 
私は重い気持ちで5週間の宣教旅行に出発しました。

2週間後、ペートからの手紙が届きました。
封を開けてみると、このような文面でした。

~ママ、そして↑(上向きの指のイラスト)ありがとう。
僕は元気です。その後、僕がどう過ごしていたと思う?
泣いてママを見送ったけど、すぐに涙をふいて従兄弟とフットボールをしたよ。

シャーリーおばさんには、僕がしょんぼりしているのがわかったと思う。
「ペート、あなたが小さいころよく行ったカンファレンスセンターに連れて行ってあげましょうか」
と言ってくれたんだ。~


言い添えておくと、彼女は私たちの説教をほとんど聞いたことがありませんでした。
私たちが何をしているのかも、あまり知らなかったのです。
でも、彼女はその時、私たちが以前仕えていたキリスト教団体のところへ連れていってあげようか、と言ってくれたのでした。

それだけでなく、彼女は自分の子どもも一緒に連れていくことにしたのです。
ペートは出かけるうちに少しずつ元気を取り戻しました。
現地に着くと、リーダーが子どもたちに声をかけてくれました。
そして、3人の子どもたちは信仰について学び、受け入れたのです。
ペートもそこで起こったことを目の当たりにすることができました。

神様に従順であろうとして痛みを経験し、その後でこんな手紙を受け取るとは、
とても想像できませんでした。
みことばの約束がもう一度浮かんできました。
子どもたちの祝福は、両親に従い、主に礼拝をささげることである、と。


もちろん、いつも母親や父親が子どもを置いて行くのがよい、と言っているのではありません。
神様が「南アフリカには行かず、イングランドにとどまっていなさい」と言われる可能性もあるでしょう。
その場合には、別のところで葛藤を覚えることになるでしょう。
夫に電話して、私が担当するはずだった集会奉仕をすべてキャンセルしてもらうことになるでしょう。
私は「それでも、今は御父が子どものことを最優先しなさい、と導いておられるの」
と話したことでしょう。


周りの人をがっかりさせるというのも、勇気のいることです。
特に、愛している人々をがっかりさせるのは。
どうしてよいかわからない時には、神の助けを求めてください。
神様は、あなたに最善の道を示そうとしておられます。
そして、あなたがその道を選び従うなら、神様はあなたの従順を喜ばれます。

                                                        (続く)

バランスのとれた生活とは ~その3~

Jill Briscoe
ジル・ブリスコー

「ねえ、行かないで。お願い」と、息子は何度も頼みました。
「ママがいないなら、ここにいたくない。
だって思っていたような場所じゃないんだもの。
ここで待つのはいやだ。僕もママと一緒に連れて行って。」

「ペート、それはできないわ。だってあなたはビザ(査証)も持っていないんだもの。
それに、もし持っていたとしても、あなたを連れて行くことはできないの。
ここにとどまることもできないわ。
ママは行かなければならないの」と私は答えたのでした。

私はちょうど、出エジプト記を読んでいました。
昼は雲の柱が、夜は火の柱がイスラエルの民を導く、という箇所でした。
家族連れは、そんな中をどう感じながら暮らしていたのだろう、と考えたものでした。

おそらく、雲の動きにかなりうんざりしていたのではないか、と想像します。
なぜなら、家族全員がやっと寝袋を並べ、テントを張った時に、
雲の柱が再び動き出す、ということがあったと思うのです。

父親の「あれまあ、また移動だ!」という声が聞こえるようです。
母親は「せっかく子どもたちを寝かせたところなのに」と言ったかもしれません。
「さあ、子どもたちを起こして着替えさせるんだ」と父親が声をかけたでしょう。
雲や火の柱は、イスラエルの人々に「従順」を学ばせたに違いありません。

自分の聖書のその箇所の余白に、「子どもたちへの祝福は、親に従順であることからくる」と私は書き込んでいました。
それも、ちょうどペートが部屋に入ってくる直前に。

だから、この場合何が最優先であるか、私にはわかっていました。
南アフリカへ宣教に行くことです。
しかもその聖書箇所だけでなく、さまざまな状況からも確信がありました。
そうすることが正しいとわかっていました。

でも、それがいかに辛いことだったか、わかっていただけるでしょうか?
ペートがどのような状態で過ごすだろうかということが脳裏を横切りました。

ペートは乗りきれるだろうか。
親に見捨てられたと思うだろうか。
神様はひどい、と腹を立てるだろうか。

 (続く)

バランスのとれた生活とは ~その2~


Jill Briscoe
ジル・ブリスコー


「イエス様が一番、そうすれば他のこともうまくいく」

もし神様があなたに、何を、いつしてほしいと願っておられるかを理解したなら、すべてのことが整理されてきます。
私の友人の一人は「イエス様を第一にしたら、次に何がくるかわかりますよ」とよく言います。
その通りです。

しかし、そうした満ち足りたライフスタイルの中でも、ストレスはやはりあります。
ほとんどのストレスは、あなたのしていることを批判されることからやってきます。

宣教師として14年、牧師夫人として21年の生活を振り返ると、周りのクリスチャンからの批判は、私にとって最も辛かった(現在でも辛い)です。
神様を第一にしてせっかく得られた良い結果にもかかわらず、そうした反対意見の中での生活はあなたを疲弊させるのです。

批判を受けながら過ごすのは容易ではありません。
それは教会内での反対意見であったり、家族内での反対であったりします。
イエス様もその両方を経験されました。


私は、子どもが18歳、16歳、14歳だった時のことを思い出します。
夏の間、18歳のデーブはアルバイト、16歳のジュディは友達のところに泊まっていました。
夫のステュアートと私は宣教旅行で南アフリカに行く予定でした。

一番下のペートは、その間実家のあるイングランドに行くのがよいと、私たち夫婦は考えました。
そこまで私が連れていって祖母と会い、それから南アフリカで夫と合流する予定でした。

私はいつも異なる5つの方向へ自分が引っ張られているように感じていました。
特にその夏は。
このように思ったのを覚えています。

「いったい、誰のために時間を使えばよいのだろうか。
子どもたちか、夫か、自分自身か。一番はどれだろう。
夫の留守中、教会で奉仕をするのがよいのか。
そうそう、私の母はどうだろう。
何千キロも離れているし、あまり体調もよくない。」

私は、神様が何を第一にするように言われているのかを知ろうとしました。
祈りを重ね、夫と共に宣教旅行に行くのがよいという結論に至りました。

そこで、イングランドに立ち寄り、母としばらく会い、そこにペートを残して南アフリカに行くことにしました。
母とペートと私とで、2,3日の素晴らしい時間を過ごしました。

ところが、南アフリカに出発する日の前夜、ペートが部屋に来てベッドに座り、泣きだしました。
そうして「お母さん、行かないでちょうだい」と言いました。

まあ、どうしましょう!
 (続く)

バランスのとれた生活とは ~その1~


 今日、天の父があなたに求めておられることは何ですか?

Jill Briscoe
ジル・ブリスコー




長男が33歳になった時、ああイエス様はこの年齢で死なれたのだ、と改めて実感しました。「33歳」とはあまりにも若いです。
そんな若さで人生を終えるというのは、普通はととのった生涯とは思えないのですが、いかがでしょうか。
けれども、地上での生涯の終わりに、イエスは「(天の父の使命を)完了した」と言われました。

33年のうち30年間は、イエスはナザレで「仕事」をしておられました。
それも、効率のよい人生の過ごし方とは思えませんね。
しかし、ナザレでの30年間は、神様が計画されていた期間であるがゆえに、非常に大切な年月だったと言えるのです。
30年間、御父がイエスに望まれる第一のことが、そこで過ごすことだったからです。

「やり遂げる」というのが、あれもこれも全ての分野、領域のことをこなすことでない、と知るとほっとします。
むしろ、神様が私たちにしてほしいと願われるのはどの分野のことで、どの仕事をきちんとやり遂げるのかを見出すことなのです。

一人ひとりに異なった仕事があり、神様は私たちがそれをできるよう、あらかじめ備え助けてくださるのです。
たとえ、それが人生のほとんどを「ナザレで過ごす」ようなことだったとしても・・・!


覚えておいてください。御父があなたに与えられたことに目をとめていさえすればよいのです。
他の人がすることを代わりにすべきではないのです。
さあ、あなたにとって御父からの仕事とはなんでしょうか。

長年、私はどう優先順位をつけたらよいか、さまざまな本を読んできました。
ある本には、「第一に神、第二に家庭、それから教会」と書いてありました。
また別の本には「第一に教会、第二に家庭、そして神」というものもありました。
私自身も、優先順位に関する記事を執筆してきました。
それぞれの説がどれも聖書的なので、どの立場もとってきました。

そして、この年齢になって出た結論は、神様への愛を、他のすべてへの愛よりも優先させる、ということです。
つまり、優先順位の原則とは、御父と御国のことを第一にすることです。
御国の仕事が最優先です。
「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6:33)なければならないのです。
すなわち、神が今日は第一にせよと言われたことを、今日は最優先にしなければなりません。

もっとも、今日は最優先であったことが、明日あさってには最優先ではないかもしれません。
でも今日一日のことだけを心配すればよいのです。
神様の優先順位が私たちの優先順位でもあるべきでえす。

だから、もしかすると御父は「今日あなたが最優先にするのは、子どもと家にとどまっていることです」と言われるかもしれません。それなら、そうします。

あるいは、「今日は他の人に子どもの世話を任せて、あなたはバイブルクラスを指導しに出かけなさい」、「出ていってあれとこれとをしなさい」と言われるかもしれません。
御父がそれを今日最優先にせよと言われるのなら、そうします。

でも、神があなたの隣にいる人に、まったく別のことをせよと言われていても、驚かないでください!

だいたい、神が私たちに同じことを願われると思いますか?
私たちはそれぞれとてもユニークに造られています。
また、人生の異なる段階を歩んでいます。
責任もそれぞれ違います。
だから誰かを見て「あの人はこれを第一にすべきなのに」と言うべきではないのです。
だって、他の人にとっての最優先はわからないのですから。
ただ、自分はどうかということを知っていればよいのです。

 (続く)

2015/09/21

デジタル化社会がもたらしたもの








Dr.Sylvia Hart Frejd



思想家ラルフ・ワルド・エマーソンは、
「今という時は、その他の時と同じく、最善の時である。
ただしわれわれがそれをどう扱えばよいか知っているならば」
と言いました。

彼の名言は今日のデジタル時代によく当てはまります。私たちがどう扱えばよいかわかっていれば、今はとてもよい時代となります。

私個人としては、デジタル技術がもたらした便利さにとても感謝しています。

息子たちが進学して家を離れていても、メールを打ったり連絡をとったりすることができます。
娘は最近別の州に引っ越しましたが、Face Timeで連絡できるのはありがたいことです。

また、月に1度、メンターにスカイプできることを楽しみにしています。

デジタル技術がいかにさまざまな恩恵をもたらしたかは異論がないでしょう。
けれども、その技術がわれわれから多くのものを奪った、ということも指摘しておかねばなりません。



<デジタル化による影響の実態>

・平均的な人は1日に150回携帯電話をチェックする。900回見る人もいる。

・デジタルでつながることが増えると、より孤独になる。

・スマホを使う人の80%が、起きてから15分以内にスマホをチェックする。

・画面を見る時間が増えると、共感力が減少する(2000年に比べると、共感力は40%減少しているという)。

・自己愛傾向が30%上昇する。

・10代の若者は、約束よりもスマホを重要視する。


最近、ある牧師と話しました。彼は今日のデジタル化の影響を正直に話してくれました。

・・・デジタル化に直面して、教会のあり方を考えさせられる。
信徒たちは、現実から遠いところに行ってしまった。
デジタル化社会の中で、彼らは考えたり、礼拝したりすることさえ難しくなっている。

私自身も、これまでデボーションや人々との交わりの中にデジタル機器を持ち込んでいたが、
あり方を考え直す必要があると思う。・・・


マサチューセッツ工科大のSherry Turkle教授は
「デジタル世界の問題は、それが究極的には不完全なものであるということだ。
インターネットを通じたつながりは、結局はつながりきれていない。
にもかかわらず、そのつながりは人を夢中にさせる」と述べています。


意見、ストーリー、経験談があふれるデジタル世界の中で、
他人がしたり、行ったり、書いたり、生産したりしていることに心がとらわれすぎていることはありませんか。

オンライン生活が行き過ぎると、魂の生活が犠牲になることを覚えておかねばなりません。



<いつもつながることで>

デジタル世界に侵害されているのは、家庭、学校、教会などあらゆる身の回りの生活です。
私たちは互いに毎日24時間、どこにいても「つながっている」状態から逃れることはできません。

絶えずデジタル化の中にあると、感情、霊性、肉体、人間関係が蝕まれていきます。

多くの研究者は、デジタル世界に生きることで、われわれが「深さ」をなくしていると信じています。
つまり、思いの深さ、想像力の深さ、考えの深さ、感性や感情の深さ、
そして人間関係や仕事における深さを失っているというのです。



<健康的なデジタル生活を送る>

このコラムを書いたのは、私たちがデジタル技術を適切に用いて、よき管理者としての信仰生活をおくるためです。

ローマ12:2がよいガイドラインとなります。
「この世(デジタル社会)と調子を合わせてはいけません。むしろ、・・・心の一新(電源を抜いた心)によって自分を変えなさい。」

誠実であるなら、健康的なデジタル生活を送るために以下のいくつかが助けになるでしょう。
10のステップを挙げました。
神様が助けてくださり、私たち皆がよきデジタル社会の管理者となれるように、と祈っています。




<健康的なデジタル生活のために~10のステップ>

1.発信することは単なるつぶやき(ツイート)以上である。
 投稿する前に2回確認してからツイート、メール、アップロードする。

2.オンラインで発信したことを見直し、肯定的、建設的なものであるようにする。
なぜなら、永遠に残ってしまうのだから。

3.時々離れるように心がける。週に一度、あるいは月に一度のデジタル断食を試す。

4.人間関係を大切に。バーチャルな人間関係より現実の人間の方が大事である。

5.ここまで、という限界を設定する。

6.現実の生活で楽しめることを見つけて行う。

7.自然の中に出かける。散歩、ハイキング、日光浴など。新鮮な空気を吸う。

8.電源を切り、睡眠をとる。睡眠なしには脳は働かない。

9.日々「神様のための場所」を設ける。静まり、神の臨在を思う時間をとる。

10.よい管理者となり、デジタル技術を主の栄光のために用いる。




2015/01/30

スーツケースの荷ほどきをする(3)





~神が置かれた場所で、腰をすえる~






ジル・ブリスコー






「荷ほどきをする」とは?

私たちは1970年にアメリカに着きました。
そして奉仕する予定の教会で、一部の人たちが私たちを呼ぶのに反対であったことがわかりました。
私たちが渡米するのが導きだと決断したのは間違いだったのでしょうか。

いいえ、私たちが導きであると判断したいくつかのことを思い出す時、間違いではなかったということを確信しました。
また、ここに至るまでの明確なサインをとり違えてはいないことがわかりました。



どのように荷ほどきを始めたらよいか

・現在置かれている状況にどのように導かれたのかを思い返してみましょう。
神様の導きを求めていましたか。
後からくよくよ思うのはやめましょう。


・私たちの場合には、反対している人たちと話し合いを持つようにしました。
話し合うことで、ほとんどの問題は解決しました。
また、役員の人を信頼し、問題解決のために内外からの知恵をもらいました。
いくらかの人々は教会を去っていきましたが、教会にとどまった人との理解に努め、主はその人たちと共に牧会していくようにしてくださいました。


・私たちは「予測していなかった状況の中での荷ほどき」をし、「説明のつかないことを受け入れる」ことにし、手にゆだねられている働きに心を向けました。

どんな大きな決断の中にも、受け入れなければならない「受け入れがたいこと」や、避けられない衝突、さらに予測不可能な決断を迫られることがあります。
謙遜になり、神様の目にかなう情報を得、新しい環境を受け入れ、みことばと祈りのうちに神様の答えを求めていくなら、日々、あるいは一瞬一瞬、御霊によって導かれていくのです。

それでも・・・それはまず、「荷ほどきをする」ことから始まるのです!




スーツケースの荷ほどきをする(2)




~神が置かれた場所で、腰をすえる~






ジル・ブリスコー






何年も前のことですが、私たちは困難な地で奉仕を始めた宣教師を訪ねました。
彼らは4年間の予定でそこに派遣されていました。
それはまさに「大変なポスト」と言える場所で、私は到着した時に
「主よ、私ではなく彼らをここに派遣してくださったことに、感謝します」と心で言いました。

特に、若い家族にとってはこの困難の多い場所になじむことは非常に難しいのではないかと思われました。

少しして、私は若い宣教師夫人が、彼女のスーツケースを荷ほどきしていないことに気づきました。
文字通りにも比ゆ的にも、現地でのこれまで2年間の働きの間、彼女の大きなスーツケースの一つは、到着した時と同じ部屋の隅に置かれ、そのまま使われていたのでした。

彼女が現地になじめていないのは明白でした。
その半開きのスーツケースが全てを語っていました。
「母国に帰りたい!」と。

1年後、彼らは帰国しました。



神様は今、あなたをどこに置かれているでしょうか。
あなたはスーツケースの中身を出していますか?
ぜひ、そうしてください。

神様の召しに従うと決心したのなら、腰を落ち着けてとどまりつつ、同時にいつでもそこを去り、神が導かれる場所ならどこにでも行くという覚悟をしていますか。

私は自分の人生の旅路を通して、与えられた状況のうちに可能性を見出すまでは「家に帰らない」ということを学びました。
ちょうど、荷物をほどいて生涯腰をすえるかのように、その状況に向き合うということです。

時には調整が必要です。
また、別の時には荷物をほどいて「部屋づくり」をすると約束しても、うまくいかないことがあります。

しかし、最初にスーツケースの荷ほどきをすると決心した上で物事がうまくいかないとわかったとい
うのなら、神様は私が全てをささげたことを知っていてくださいます。
そこには平安があります!


ピリピ2章を読むと、聖書にどのような実例があるかを学ぶことができます。
主イエスは、私たちのためにご自身のスーツケースを開けてくださいました。
最初はベツレヘムで、それからナザレ、ガリラヤ、そしてエルサレムで。

私もイエス様の姿にならいたいと思わされます。

(続く)




スーツケースの荷ほどきをする(1)






~神が置かれた場所で、腰をすえる~






ジル・ブリスコー





スーツケースと共に過ごすのがどういうことかについて、私はかなり詳しい方だと思います。
今年はユナイテッド航空から、200万マイルのフライト実績を表彰してもらったくらいですから!
それでも、パッキングの中身については、依然として悩みのつきないものですが。

ところで、スーツケースの中身を出すのは、旅につきものの動作です。
私は女性であるから余計なのかもしれませんが、スーツケースの中身を出してしまわないと落ち着かないのです。
目的地に到着し、そこに2日間滞在することになっているなら、すかさず中身を全部出してくつろげるように「部屋づくり」をします。でも夫のスチュアートにはそんな必要がないようです。

ある時、ホテルのベッドの上で夫は小さなボストンバッグを開け、本だけを出しました。そして二人
の会話が始まるまでの数時間、彼はそれだけでくつろげました。

でも私は違います。
ホテルに備え付けのたんすに持ってきたものをしまい、クローゼットに服をかけ、洗面所に小物をならべ、旅程を読みあげて確認します。その後、ようやくお茶を飲もうとしました。

「君は何をしているんだい?」夫はベッドに寝ころんだまま尋ねました。
「荷物を出しているのよ」と私は答えました。
「でも、ぼくたちはここに2日間しかいないんだよ」彼は不思議そうに言いました。

「好きにさせてちょうだい。『部屋づくり(巣作り)』をしているのだから。荷物を出せたら準備完了よ。」

このようにすることで、私はその場所で落ち着いて過ごせるのだと思います。
私は今ここに「人々に宣教する」ためにいるのであり、ごそごそ探し物をして貴重な時間を無駄にするということがなくなるのですから。

「もっと荷物を少しにすれば」と言いかける夫を制して、
「それ以上言わないで。天国に行ったら、あなたと同じサイズのかばんにするわ」と私は言いました。


私は行く先々で真っ先に荷物を出すようにしています。
そうすることで、自分がそこにずっととどまるように感じられるからです。
そしてそこで出会う人々が、みな重要な人だと感じられるのです。

なぜ神が私をこの時、この場所に送られたのかがわかるように、よく相手の話を聞きます。
そしてどこに行ったとしても、そこで私に与えられたものを分かち合うことができるようにしています。
(その2に続く) 



Intentional Living:神の計画を意図的に生きる(5)

5 ふりかえり、 再評価し、 選ぶ。 主とともに歩みながら、目標を設定し、毎日のよい習慣を実践してください。 途中で立ち止まり、熟考し、再評価し、選択することです。 Intentional living は、大陸横断紀行によく似ています。 走行中に車を停め、燃料を補給する必要があ...