2016/09/28

この混乱する世界の中で






~しかし、ひとりひとりに、イエスは働かれている…全てを新しくするために。~




スチュアート・ブリスコー Stuart Briscoe



私は、言い争いをするのに人生の多くを使いすぎてきました。
そこそこ歳を重ね、少しは賢くなった今、私は論争に人生の時間を用いるのは最善の方法ではない、という結論に至りました。

その代わりに論争の要因を探すようになりました。
そして驚いたことに、少なくとも一つの共通点があることがわかりました。
それは、「この世界は混乱している」
ということです。

本のページをめくるように未来を見るなら、私たちは同じか、さらに悪い状態にあるということを感じます。
現在のニュースには、あまりよいものがありませんから。

人々はこのことに同意しますが、この世界が混乱しているという共通認識への反応はさまざまであることがすぐにわかるでしょう。


1.世俗の、人間中心の見方をする楽観主義者。

この人々は次のように言います。

「混乱していない時代があっただろうか?
歴史を見るなら、それは争い、痛み、戦争、流血、憎しみ、自滅的な行為の長く悲しい一つの話である。
人間は生き残ってきたし、私たちもそこを何とか乗り越えている。
この世界はこれまでよりもよくなっていくのだ。
私たちは乗り越えてきたのだから!
だからあきらめないでいよう。
私たちが歴史を書き換えるのだ!」


2.悲壮で絶望的な、悲観主義者。

この人々は言います。

「世界はめちゃくちゃで、どうしようもない。
見聞きすればするほど、私は落ち込んでしまう。
全てが過ぎ去ってしまえばよいのに。
どうしてよいか、私にはわからない。」


3.自分に夢中で、ナルシストな自己中心者。

この人々は次のように述べます。

「この世界は混乱していて、私ができることは何もない。
だから何もしようとしなくてよい。
私に関しては、世界はどうなってもよい。
世界の中で、私が気に入る、私だけの、快適で、安心できる小さな場所さえあれば、何も気にしない。」


しかし皮肉なことに、共通に認識している現実への、これら3つのさまざまな反応に共通するのは、同じことを見落としています。

それは、神を無視していることです。
これは致命的なミスです。説明しましょう。


神は、被造物がよく生きるようにと心から望んでおられ、堕落や崩壊や自滅を、じっと座って眺めておられるわけではありません。
実際に、神は
「見よ。わたしは、すべてを新しくする。…書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である(黙示録21:5)」と言われます。
神は言われただけでなく、これが完全に正しく、信頼でき、後の人々のために記録すべきことだとされました。
つまりそれは、あなたや私、そしてすべての人のためだということです。

このことばは現代の人々の注意を引くものであるはずです。そして、よく読むと、「新しい天と地」(黙示録21:1)を含んで「すべてを新しくする」のだという約束を見出すでしょう。

そうです。
世界は混乱していますが、まったくコントロールを失っているわけではありません。
甚大な災害を自ら引き起こす方向に向かっているのでもなければ、人間の想像にすぎない力によってコントロールされるという保証もありません。

事実は、聖書のことばによれば、神が世界の出来事に深くかかわっておられるということです。
神は起こっていることを完全にご存知です。
神はすでに実行中の計画をお持ちです。
そして、神は静かに働いておられ、神の支配のもとにある結果へと、すべてのことをたゆみなく導いておられます。

新しい天と新しい地は義によって特徴づけられます。
それは、全てが正しくされる、という意味です。
全てが、ついに、あるべき状態になるのです。
そしてこの理想的な新しい創造の世界は、「新しく造られた」まったく新しい人々で満たされます。

第2コリント5:17には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。
神はこの瞬間も、人々をご自身のところに招かれ、「新しく造られた者」としてくださっています。

彼らの古い人生は忘れ去られました。
なぜなら、十字架の主キリストのうちにあるのですから。
また、彼らの新しい人生が始まりました。
なぜなら、聖霊となって内に住まわれる復活のキリストが、新鮮な力を与えてくださるのですから。

この事実はとても重要であり、神が彼らを「キリストのうち」にあり、それゆえ「新しく造られた」とみなしてくださるのです。

この混乱した世界の未来について、キリスト者の描く幻は、現代のこの世の多くの人の見方とは全く異なっています。



では、神は今の中間状態で何をしておられるのでしょうか。

この世界はずっと混乱していて、まだ新しい創造物は現れていません。
だからこの壮大な幻がまだ実現しておらず、完成に至るにはまだ道のりがある、と考えられます。
私たちは神様が実際になさっていることに注意深くあらねばなりません。

使徒パウロはコリントの人々に神が「キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせない」と述べました。
神はひとりひとりに、それをしてくださっています。
神はこの世界によって傷つけられた人々と、この世界をひどく傷つけた人々の双方を招き、罪をゆるし、回復させ、変革させ、彼らを「新しく造られた者」としてくださるのです。

神はあがなわれた罪びとを招き、ゆっくりと、しかし確実に、新しく造られた民へと変えてくださっています。
一度にひとりずつ、なのです。



新しく造られた者とは?


新しいライフスタイルをもっています。

第2コリント5:15には「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」とあります。

新しく造られた人々は、キリストが完全なゆるしと新しいいのちのために何をしてくださったかという光に照らせば、ゆるしと悔い改めが必要な古いライフスタイルにはもどれないということがわかっています。
彼らは、これまでの無責任な生活を続けるためにキリストが死なれたのではないことを知っています。

むしろ、キリストがしてくださったことに感謝し、勝手気ままな古い生活から離れ、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のため」に生きたいと思うのです。
彼らは、だんだんと主である方の生き方にならった人生を生きることを選ぶのです。
無私で、愛に満ち、あわれみ深いしもべとしての主のご生涯に。

彼らはまず神を神とし、キリストを主とし、自分自身を愛のある、信頼できる、従順な弟子、キリストのしもべとすることに関心があります。
彼らは、「すべてを新しくしてくださる」という神の永遠の目的に加わることに価値をおきます。

あなたはこうした人々がだれかわかるでしょう。
人生は「彼ら中心」のものではなく、「キリスト」中心のものなのです。


新しい態度で臨みます。

多くの人にとっては、人間関係が混乱しているので、この世界も混乱しているのです。
ただ、他者とうまくやっていけないのです。
それが次第に影響を及ぼすのです。

悪い行い、不適切な反応、ゆるせない思い、不和とけんか、嫉妬とねたみ、執念深さ、陰口…。
こうした機能不全な行いのリストはそのまま悲劇の数と同じです。
そして、こうした行いにいかに陥りやすいか、私たちは誰でも知っています。
なぜなら、私たちは互いをそのように見、反応する者だからです。

パウロはそれを「人間的な標準」と表現しています。
彼は「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません(Ⅱコリント5:16)」と書きました。

つまり、こうです。

新しく造られた人々は壊れた人間関係と無秩序な文化のただ中に植えられた。
しかし、彼らはもはや人間的な視点で人々を見ることはない。
キリストの愛が彼らに教えてくれたのだ。
もし、彼らが見つけられた状態でキリストに愛され、キリストは他の全ての人も同じように愛しておられるのなら、このゆるされた罪人が、どうして主ご自身よりも劣った態度で他の罪びとを見ることができるだろうか。

その通りです。
彼らは、人々をキリストの目を通して見始めるのです。



新しい召しについて分かち合います。


パウロはもう一つの特徴についてもさらに書いています。今回は召しについてです。
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです(Ⅱコリント5:20)。」

使節は、自分の国のために仕える人です。
自分の国の代表として、自国を離れて他の国に住むように召されています。
そこで敬意を払われ、誠実に自国を代表し、代理となって語り、異国の環境で自国のためになるようにふるまいます。
簡単なことではありませんし、専心、技術、コミットメント、誠実さ、一貫性が求められます。

パウロはこのたとえを、新しい人の行いと召しを表すのに用いました。
新しい人は、混乱した世界で代表として生き、王なる神の国である新天新地を告げ知らせる人として生きるのです。

ですから、この世界の混乱に直面しましょう。それで終わりではないのです。
神は働いておられ、神の目的が明らかになっていくのです。
私たちはひとりひとりが、神の働きの一部として召されているのです。

私からあなたへ Between You and Me


           
 Jill Briscoe ジル・ブリスコー

私たちができるだけ避けるべきことの一つは、「なぜ(Why)」かを探ろうとして、あまりにも多くのエネルギーを浪費することです。

「でも私にはとてもたくさんの疑問があるので、『なぜ』か考えないなんて不可能です」という声が聞こえてきそうです。
けれども、神様に違った尋ね方をすることは可能ではないかと思います。
「なぜ(Why)」と問うかわりに「どのように(How)」と尋ねてはどうでしょうか。

マリヤはガブリエルが現れて幼子を産むと告げられた時
ーただの赤ちゃんではなく、全てのユダヤ人の女子がその子を産む特権を願いましたー
「なぜ」と問わずにむしろ「どのように」と尋ねました。

彼女はもちろん「なぜ?なぜ今?なぜここで?」と尋ねることもできたでしょう。しかし、彼女はただ「どのように」と問うたのでした。
「この信じられない状況の中で、どのように神のみこころを行うことができるのでしょうか」
それに対する答えはとてもシンプルで訪問した天使から与えられました。
「聖霊によるのです・・・」
すぐにマリヤは喜んで「私は主のしもべです」と答えました。



私はそのような模範的な行動になるようにと、自分の反応を訓練してきました。
夫がリーダー・伝道者として世界各国の旅をしなければならなかった時、私は「なぜ今なの?」と問いたい気持ちになりました(当時、私たちには幼い子供と介護が必要な母がいました)。
「なぜ、私を助けてくれる肉親のいないこの地で・・・なぜ?」と。

葛藤を覚えましたが、やっとの思いで私は尋ね始めました。
「どのように?この難しい状況で、どのようにしてやっていく力を得ることができるのでしょうか、主よ。
どのように、3人の幼い子供たちの父親兼母親を務めることができるでしょうか。」

「なぜ、彼のチームの他の人が代わりに行ってくれないのかしら。なぜ、夫でなければならないのかしら。」といった疑問が頭をもたげてくるとき、
私は「もし夫でなかったらどうだったでしょう。主よ、あなたが用いようとされる人物と結婚できた特権を感謝します。この時に、どのように協力者となれるでしょうか。
どのように父親兼母親を務め、自宅がいつもどおりだという平安のうちに彼が出ていくことができるでしょう」と考えるようにしたものです。

神様の、私の「どのように?」という問いへの答えはいつも同じでした。
それはマリヤがガブリエルから受けた答えでした。
聖霊が私をおおってくださり、聖霊の力で試練に向かい、みこころがなされるのです。

ですから、次回「なぜ?」が浮かんできた時、かわりに「どのように?」と言えるまでの「待合室」に駆け込んでみてください。
それは私たちの心の内にある「静まる場所、待合室」です。
そこで神様を礼拝する時、「なぜ」を神様の足元に置くための助けを得るのです。


2016/07/27

きちんとできなくても ~その2~


最も大切なことを優先する(続き)

Vicki Courtney

その1はこちらから


私の祈りの生活は、日ごとのある決まった時間というよりは、一日を通しての神様との会話に近いものです。
一日の中で神様の多くの恵みに気づいたときに、神様をほめたたえます。
また、神様のみわざに気づいたときに、時間をとってそれを味わいます。
時には大好きな賛美のプレイリストを再生して、賛美曲のすばらしさに涙を流します。
神様の前に静まる時間がどのくらいかはわかりません。
なぜなら、一日を通じて絶えず神様の前に出ているからです。

ついに私は、このやり方(決まったやり方のない)が最も自分に適していることがわかりました。
そして、何か規則に従うというよりは、神様との関係を築くことに焦点を合わせています。


あなたが日々忠実に時間を守っておられるでしょうが、それが喜びからというよりはむしろ義務になっているかもしれません。
神と共に過ごす時間が、私にとって必要な時間、というよりは単なる「なすべきこと」になっているかもしれません。
もしそうなると、デボーションの足跡はあなたの熱心さを示すだけで、信仰は弱ってしまいます。

行いによる善は、神様との誠実で豊かな関係に導くことはほぼありません。
マリアはイエス様の足元に座りました。
それは、彼女がその時間を絶対に必要であると考えたからでした。
単なるTo-doリストの一つにチェックを入れるためではありませんでした。

神様と定期的に欠かさず過ごそうとするあまり、その過程で神様が不在になってしまうことがあります。
言い換えれば、そこに登録されてはいるものの、神様の声を聞く時にはいないかもしれないのです。
もし神様と過ごす時間がこうでなければ、という方式にこだわると、その時間は特権にあずかる時ではなく、いやいやながらの義務になります。

質問をします。

もし神様との時間を過ごさなかったら、神様と交わらなかったことが気になりますか?それとも、一日抜けてしまったという事実が気になりますか?


あなたの答えが、あなたのデボーションの動機が何かを知るよい目安になります。
神様と過ごすことについて、今まで持っていた動機を捨てたらどうなりますか?
神様と過ごすことについて、どうしたらデボーションを習慣化するかについて今まで持っていたイメージを捨て、新たな思いで始めたらどうでしょうか?
神様と過ごす方法は、他人の方法があてはまるとは限らないのです。


もし継続して神様と交わることができなければ、神がどのようなお方であり、どれほど私達を愛しておられるのかを、た易く忘れてしまいます。
失望、怒り、告白されない罪、答えられない祈り、応じられない期待、そのほか様々な邪魔で、私たちは神様から遠い気持ちになり、神様を避けるように誘惑されるのです。
神様を避けても、魂には不安がつのるばかりです。
私達は神様にあって真の安息を得るように造られているのですから。

もし神様を避けてきたなら、「あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか(へブル4:16、新改訳第三版)」。

神の御座に近づいて、心を注ぎ出しましょう。
もし祈りが答えられなくて心が辛いなら、神様にそのまま伝えましょう。
もしからみつく罪にとらわれているなら、神様のところに行って告白しましょう。
過去の重荷を背負っているなら、神様の恵みを思い出して解放されるように願いましょう。

上の節で使われている「大胆に」はギリシャ語で「parrhesia(パルヘシア)」です。
「はっきり言うこと、率直さ、単刀直入に」という意味があります。
神様は受け止めてくださいます。
あなたが、神様は受け止めてくださらないのでは、と想像しているだけなのです。
今がその関係を修復する時です。
もし罪のなわめに苦しんでいるなら、一晩での修復は難しいかもしれませんが、神様に近づこうとする思いから回復は始まります。
放蕩息子の帰りを待っていた父親のように、神様はあなたを待っておられます(ルカ15:20)。

神様はあなたのことを怒ってはおられません。
また、あなたの反抗を罰しようと御座に座っている方でもありません。
あなたは限られた恵みのおこぼれをもらおうとして、疲れ果てることはないのです。

神様は、あなたの罪を覆うために恵みを惜しまない方です。
何度でも繰り返し言います。
神様は、あなたのどんな理由にもかかわらず、そばに来なかったことを責めることはなさいません。
あなたが必要な時に恵みとまことを施したい、と願い待っておられるのです。

神様との関係を妨げているものが何であっても、あなたの魂は神を必要としており、神様に立ち返って初めて安息を得るのです。
少し立ち止まってみましょう。

全地の神があなたを罪から救ってくださっただけでなく、あなたを知りたい、そしてあなたにもご自身を知ってほしいと願っておられるという、素晴らしい奥義について考えてください。

この驚くべき事実を知るなら、私達はひざをかがめて感謝と礼拝をささげたいのではありませんか。
神様は私達の人生に無理に入ってこようとはなさいません。
私達が選ぶ自由意志を与えておられます。
私達の多くは疲れ果て、混沌と混乱と義務でいっぱいの生活以外見えなくなっています。
けれども、私達にはもう一つの選択肢があります。
それはより良いもので、混乱した魂に安息をもたらすのです。

あなたはその良い方を選んでいますか?
そうでないなら、もうためらうことはありません。



Just Between Us 誌 2016 夏号より翻訳   Original title: "Quiet-Time Flunkie"  
Copyright 2016 Vicki Courtney. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045 

きちんとできなくても ~その1~



最も大切なことを優先する






Vicki Courtney





「デボーション」という言葉を見聞きした時、あなたはどのように感じますか。
信仰生活の中で、それほど負担でないものの、私はある程度罪悪感を感じてきました。
それは、どんなに努力しても、クリスチャンの多くの先輩たちが指導してくれるようなデボーションの時をきちんと決めてとることができなかったからです。

私はデボーションの記録をつけようと思って日記帳を何冊も持っていますが、未使用か初めの数ページ使っただけになっています。
聖句を覚えようとして買ったカードや蛍光ペンも未開封のままです。
各種の聖書通読表や週ごとの祈りの表も、ずっとそのままになっています。


「完璧な」デボーションの習慣についてのセミナーに参加するたび、勧められたものをそろえ、目覚まし時計をセットしてきました(なぜなら、「よいクリスチャン」は朝にデボーションを持つのがよい、とされていますから)。
今度こそ、と決意を新たにしてその都度チャレンジするのですが、一週間が過ぎるころには遅れをとり、強い決意も半分くらいになってしまうのでした。

ほどなく、目覚ましは解除され、何も書かれていない日記帳と暗記カードが、これまでの未使用のグッズの数々とともに部屋の棚に並んで収められる、という状態になるのです。
私はいわばデボーションの失敗者でした。
聖書を読むこと、祈ることがきらいなのではありませんが、他のクリスチャンが普通にできるという決まったデボーションのやり方を続けることができなかったのです。


一方、私の夫は整った日々のデボーションを続けるという点では見本のような人物です。
(冗談ですが)もし「デボーション」を辞書で引くなら、聖書を抱え、黄色の蛍光ペンを手に持ち、神様のご人格について書かれた古いプリント(神に喜ばれる者となるため、月ごとにそれぞれのご人格について学ぶための資料)を持って微笑んでいる夫が出てくるでしょう。
夫はそのような人です。
もし私がデボーションの失敗者なら、夫はデボーションに成功しすぎた人といえるでしょう。

夫と私は性質がずいぶん異なります。
夫はなんでもきちんとしたい性格ですが、私はそうでもありません。
長年の間、私はデボーションのやり方を守れないことで劣等感を感じてきました。
さらに、私は神の御座に近づこうとする時、神様が腕時計の文字盤を指でたたきながら、頭を横にふっている姿を想像していたのです。
「おお、またあなたですか(深いため息)。もう時間なのに。
洗濯機が故障したり携帯電話が鳴ったりしても、これが電車の時刻だと思って、乗り遅れないように10分で対処できるか、試してみましょう。」

もし神様を、義務を課す恐い方だと考え、私達の心よりも行いを重視される方だとおもうなら、
神様に会うことは関係を持つというよりも、ただ規則を守ることのようになってしまいます。

しかし、デボーションのやり方に失敗したと思うのをやめ、神様がある決まったやり方しか受け付けないという思い込みを捨てた時、罪悪感からではなく、純粋に心から神様をしたい求める思いがやってきました。
ある人に適した方法が、他の人にも適しているとは限りません。
私にはOne-Year Bible(新旧約、詩篇、箴言が1日ごとに分かれていて、365日で聖書全体を通読できるもの)が一番合っています。
もし1日(かそれ以上)読み忘れても、前の日に戻って読むことができますし、時にはそれを飛ばして当日の箇所を読みます。
また、聖書のソフトウェアを購入してコンピューターに入れ、時間の許すときにはその日の聖書箇所とは別に、先の箇所を読むこともあります。
ある聖句や箇所の意味をよく理解するために、ギリシャ語やへブル語の原語の意味や主要な概念を調べたり、いくつかの注解書にあたったりしようとも思います。
手元の聖書は3,4日開かないで、ある1節に1,2時間心を集中して調べる夜もあります。
それは私に、より深い洞察を与えてくれます。


(その2に続く)


Just Between Us 誌 2016 夏号より翻訳   Original title: "Quiet-Time Flunkie"  
Copyright 2016 Vicki Courtney. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045 


2016/07/26

希望の封筒~JBU、日本の人々にも届いています~




希望の封筒~JBU、日本の人々にも届いています~



Erica Chang エリカ・チャン


(文中は敬称略)






冷水が入ったガラスポットを想像してみてください。
グラスに注ぐと、のどの渇いた周りの人々はその水を飲んでほっとし、新たな力を得るでしょう。
でも、もしガラスポットに水が補充されなかったら、ポットはやがて空っぽで渇いてしまいます。


そのガラスポットのように、ジャネット・トンプソンは宣教師として、家族とともに日本で仕えていました。
霊的に暗い歩みをしている人々に、主の福音を届けようと、時間もエネルギーもささげていました。
しかし、しばしば水の補充されないガラスポットのように、渇きを覚えていました。

彼女と同じ宣教団体から派遣されたメンバーは各地に散っていたため、信仰を分かち合う集まりを持つことは難しい状態でした。
さらに、初めの数年は彼女が日本語で礼拝のメッセージを理解することも難しく、霊的な養いを十分受けることができませんでした。


彼女を励ましたのは1通の封筒でした。
一見何の変哲もない茶色の封筒は、年に4回ジャネットのところに届きました。
中には本誌(Just Between Us)が入っていました。
彼女は午後のひと時、紅茶を飲みながら最新号の記事を読むのを心待ちにしました。

「まるで友達と一緒に座っているようでした」と彼女は言います。
「聖書の教え、励ましの言葉、宣教のアイデアなどを吸収しました。
まさに魂の食物でした。」


ジャネットは恵みを独り占めにしませんでした。
日本にいる他の宣教師たちの励ましと支えにもなるだろうと知っていたからです。
読み終えると、彼女は本誌からつながりを持つようになった、約15人もの女性たちに回しました。

限られた機会にしか宣教師の女性たちは交わりを持つことができませんでしたが、彼女たちはそこで本誌の記事について語り合い、まるで渇いたガラスポットが水で満たされるように新たな励ましを受けました。


やがてジャネットは、日本人の働き人で本誌から同じように励ましと支えを受けていた、綾子とつながりを持ちました。
ジャネット、綾子、そしてジャネットの友人の智恵子は協力してJBU-Japan (Just Between Us Japan)を立ち上げました。
2007年にはJBU-Japanのウェブサイトが開始され、綾子と智恵子によって本誌の記事が日本語に翻訳されました。

ジャネットはこの新しい働きについて同僚、仲間の宣教師、日本のクリスチャンたちに知らせました。
ウェブサイトはそれ以来、日本のクリスチャン女性たちを励ますための貴重な情報源となっています。


本誌は25年前に宣教のニュースレターとして始まり、JBU-Japanは海を越えて国際的に広がった働きのほんの一例にすぎません。
必要を覚える人々に届き続けるため、一度の値上げを除いて価格は据え置かれてきました。
それゆえ、購読料だけでは紙面の発行とウェブサイトの維持を満たすことができません。

けれども神様は、誠実に支えてくださるJBUのパートナーを与えてくださいました。
多くの読者の方はご存知ないかもしれませんが、ジャネットや日本の渇いた魂を励ましてきた紙面の発行は、こうしたパートナーの方々の貴重な献金によるところが大きいのです。

ささげてくださる兄姉は、読者の女性の信仰の歩みを励まし支えることを信じておられます。
遠く、近くの国々にいるこうした兄姉は、女性を励ましたいと情熱を持っています。
真心をこめて、本誌を支えることを主からの召しととらえておられます。
思い切ってささげることが、ジャネットや日本の友人のような女性に多大な影響を及ぼすことを知っているのです。
そして、彼らは経済的なことにとどまらず、霊的に渇いた魂を励ます器として用いられているのです。

ジャネットは宣教師としての滞在中、本誌を受け取ることが箴言25:25のようであったと述べています。

「遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。(新改訳第三版)」

喜びと感謝をもってささげられたJBUパートナーの献金は、遠くの国々によい情報をもたらし、渇いた魂を励まし支えています。

もしあなたにも同じ思いが与えられたら、どうぞパートナーに加わってください。
just-betweenus.org/friends から登録することができます。
ささげ物は忠実に用いられ、世界中の街角にいる女性たちの心と魂へのよき投資となるはずです。

Elica Chang: Just Between Us の財務部門協力者。信仰に立った中小ビジネスWoven Promiseの共同経営者でもある。夫のニュートンとウィスコンシン州バーリントン在住。

Just Between Us 誌 2016 夏号より翻訳   Original title: "Hope in a Brown Envelop"  
Copyright 2016 Elica Chang. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045 


(訳者付記:現在、日本での働きはすべてボランティアベースでなされています。
 アメリカのオフィスにも多くの献身的なボランティアがいますが、印刷費や送料、その他多くの必要があります。JBU誌がさらに主の栄光のために用いられますよう、続けてお祈りください。)

2016/03/02

影響力に気づいていますか? ~オンラインの情報 その2

~インターネットで信用できるのは誰?

        その1を読む


エリザベス・マーフィー
(Ellizabeth Murphy)










3.ソーシャルメディア(SNS)では、その人物、信念、立場を知っていますか?

閉じられたネット空間で、だれかの考えや意見を軽々しくシェアするのは危険です。

4.最初から最後まで記事をきちんと読みましたか?

タイトルや最初の数行には工夫が凝らされています。私たちはよく考えもせず判断してしまいがちです。
ついこの前も、私は不十分なままFacebookに投稿をしてしまいました。
私の投稿に対して「もし最後まで読んで著者の結論を知ったなら、あなたは逆の意見を持つはずではありませんか」というコメントをもらいました。
赤面しました。じっくり読むとその通りで、私は自分の早合点を謝罪したのでした。

 

5.実体験に基づいて書かれているでしょうか?

幼い子どもを持つ母親の集まりでよく話すことがあります。
私は現在55歳で、母親でもありますが、最近は祖母にもなりました。
自分の子育てが終わっているので、若いお母さんたちに何を話せばよいかと悩みます。

けれども、ある若い母親が
「現在同じ立場にいる人ではなく、同じような経験をすでに通った人の話が聞きたいのです。
実際の経験から得た知恵が必要なのです。」
と言ってくれたので励まされています。

6.その見解は、聖書全体の主張と合っているでしょうか。

聖書のある節を取り出し、文脈を無視して用いる教えがこの頃は増えています。
私の友であるジル・ブリスコー師は、聖書のある節を扱う時に、同じことについて述べている他の箇所を見つけるようにと教えてくれました。
そうすれば、聖書が聖書を解き明かすことになるのだ、と。
その非常に賢明なアドバイスを忘れたことはありません。
biblegateway.comやロゴス聖書学習ソフトウェア(Logos Bible software)なども、
従来の紙版コンコルダンスに加え、とても助けになっています。

7.最重要:祈り、これを学びましたか?

神様は私たちがどの情報を受け入れシェアするかについて、精神も心も注意深くあるようにと願っておられると思います。
聖書は、私たちがそうする時にどんなことが起こるかを語っています。

  • 箴言4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

  • ピリピ4:8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。

  • エペソ4:29~32  悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
     神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
    無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
    お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

  • コロサイ 3:12~15 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
    互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
    そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
    キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
(以上、新改訳第三版より)


私の息子たちは、冒頭で述べた出来事を覚えています。彼らは当時、自分たちのもたらす影響力にも気づいていなければ、どうすればよいのかも知りませんでした。

私たちは自分が取るに足りないものであると感じていても影響力を持っています。
そして、その影響力は神様の栄光を現すために用いる必要があります。
もし思慮深さと注意深さがなければ、自分自身が悪い影響をもたらす存在になってしまうのです。

あなたがインターネットにつながっている時、神様をそこにお招きしましょう。
そして、神の声に耳をすませましょう。
主は道であり、真理であり、光です。
そして、他のどんなものにも勝って信頼するに値するお方なのです。



Elizabeth Murphy: 講演、著述家。女性がより信仰について深く考え、黙想するためのリトリートでも講師をつとめる。夫のマイクとの間には4人の成人した子供がいる。ウィスコンシン州ブルックフィールド在住。

Just Between Us 誌 2016 春号より翻訳   Original title: "Minding Your Influence"  
Copyright 2016 Elizabeth Murphy. Translated from Just Between Us, 777 S. Barker Road, Brookfield, WI 53045 

影響力に気づいていますか? ~オンラインの情報 その1



~インターネットで信用できるのは?


エリザベス・マーフィー
(Ellizabeth Murphy)










2人の息子が高校生の時、スケートボードを始めました。
当時はインターネット上に動画を投稿できるようになってきた頃でした。

瞬く間に、彼らの自由時間は動画を編集し、BGMを挿入することに費やされました。
そして、自分たちのかっこいい技を動画にまとめて投稿・・・友達だけでなく、世界に向けて・・・するようになりました。

公開された動画を見たある人が、私たち夫婦にメールを送ってきました。
「息子さんが何を投稿していて、どんな音楽をその動画に使っているか、知っていますか」と。
私たちは知りませんでした。
息子たちに尋ねると、その曲名と、自分たちは歌詞については特に意識していなかった、ただスケートとリズムがよく合っていたから使ったんだ、と答えました。

オンラインで歌詞を見つけ、プリントアウトし、息子たちに声に出して読ませました。
歌詞の内容を知って、彼らはびっくりしました。
そして、よかれ悪しかれ、自分たちが影響を及ぼしうることを、彼らは若くして知ったのでした。



デジタル世代にあって、私たちはかつてないほど他者に対しての影響力を持っています。
そして、他者から受ける影響についても同じです。

私はオンラインで受けるメリットに肯定的ですが、自分の意志にかかわらず多くの弊害があることもわかります。
結論を急いだり、信じていたことを疑ったり、裁いたり、
そして最も危険なことは、自分がそれらを軽はずみに他者に分かち合ってしまったりすることです。

その影響は、不特定の誰かを行動させたり、他者への意見を言わせたりする結果を生み出します。
キリストに従う者として、神様から与えられた管理能力を用い、その影響力を賢く用いたいと願うものです。


まず覚えておきたいことは
  • 自分が何者であるか
  • 自分は何によって判断しているのか
  • 誰に対して責任を持てるのか
という3点です。
多数の著書があり、セミナーや聖会の講師でもあるステュワート・ブリスコー師が、クリスチャンとして周囲の方々とどう交流していくかについてのメッセージの中で、このことについて語っておられました。

オンラインに関していえば、さらに
「私は誰を信じるべきか」
についても考えなければなりません。

「インターネットで信頼できること」(What should I believe on the internet?)
とGoogle検索したところ、なんと38,900,000もの検索結果が出ました。

もし自分の影響力を意識するなら、より注意深くなることが必要です。
そこで、7つの観点から見てみたいと思います。

2016/03/01

感情的に健康であるとは~専門家が答える

Q:否定的な感情を、どう扱ったらよいのでしょうか。


                    


答える人:ジェニー・ヘックマン
(国家認定カウンセラー、MS, LPC, NCC)


感情のない人生がどんなものだと思いますか?

この世界に造られた美しいものを見ても感動せず、
不正がはびこっても怒りを感じず、
大切な人を失っても悲しまず、
友人と笑う楽しさもなく、
苦しんでいる人を見ても何の同情も感じない・・・

様々な場面での豊かさがなくなり、平板で何の変化もない人生になってしまうでしょう。




感情的に健康であるとは、次の3つの側面があります。

  • 私たちが内面で経験する感情を正確にとらえることができる。
  • 他者に尊敬を払いつつ、その感情を分かち合うことができる。
  • 他者の感情を理解することができる。
また、自分の不完全さや傷、これまでの経験が、感情を過度に抑えたり、逆に噴出させたりすることがあるというのをわきまえていることです。

思春期の頃、私は肯定的な感情以外は感じないことにしよう、と決心したことがあります。
子どもの頃から不安症、心配症だったので、内面はできるだけ平静でいようとしたのでした。
否定的な感情をどう扱うかについて、家庭でもそのように教えられてきました。





ところが、うまくいきませんでした。
「傷つく心の力(The Power of Vulnerability、TEDはこちら)」のブレネー・ブラウンによれば、
自分の意志で特定の感情だけを麻痺させることはできないのです。
否定的な感情が抑圧されたら、肯定的な感情も同時に抑圧されるのです。

これを知ってから、私は神様がデザインされた人間の感情の豊かさをきちんと理解し、味わおうと思いました。
そうするようになって、以前ほど恐れを感じなくなりました。
また、感情が豊かになりました。
他の人にも自分の思いを出すようになりました
そして、周りの人々に対しての共感力が高まりました。

これは感情的に健康であることの第一の側面がいかに大切か、ということです。
第一の側面は、第二・第三の側面に直接影響を及ぼします。

あなたは、自分の感情をとらえ、受け入れることが難しいですか?
以下は、その原因になりうるいくつかです。



・ 恐れ

怒りや悲しみを感じると、その感情に飲み込まれてしまうか、あるいは感情がずっと続くのではないか、と恐れてしまうことです。

George Bonannoの「悲しみのもう一つの側面」という本で、感情そのものは一時的であると述べられています。
ある原因によって感情は現れますが、目的を果たしたら消えていくのです。
もちろん再び同じ感情が現れることがありますが、
私たちが感情がなぜ生まれたか、その目的を正しく理解するなら、
ひたすら耐えるだけではなく、
その感情を通して自分が成長し、決断し、人間関係を築き守っていくことができるのです。

素晴らしいですね。



・ 恥意識

恥意識は、その人の弱いところや、霊的な欠けの部分を示唆することがあります。
特定の分野である感情が引き起こされると、恥意識がその感情に伴って、直ちに現れます。

恥意識によって本来の感情が抑えられてしまうのです。
私たちは家族、共同体、文化などによって形作られてきましたが、
それらは私たちの感情や信念に非常に強い影響を与えます。

でも、恥意識は正しく直面すれば解決できます。
そうして、感情も神様に造られた姿へと自由で柔軟な現れ方をするようになります。



・医療が必要なケース

気分障害や人格障害が影響している場合もあります。
脳内物質や神経系が「楽しいこと」を伝達しない時、あるいはずっと「張り切りすぎ」た時、
感情は上向きになるか下向きになるかのどちらかです。

気分障害の場合や、遺伝子レベルでの傾向がある場合、あるいは特定のストレスによる場合もあります。

医療の助けも神様の恵みのうちにありますから、薬で脳内物質や神経系統が改善されれば、
感情が正しく働くようになります。

中には、ボーダーライン(境界性)人格障害、ヒステリー、自己愛性人格障害に代表されるような場合もあります。
その際はより専門的な治療が安心できる環境でなされる必要があります。




次の機会には、感情を理解する具体的な方法をお伝えしたいと思っています。

Intentional Living:神の計画を意図的に生きる(5)

5 ふりかえり、 再評価し、 選ぶ。 主とともに歩みながら、目標を設定し、毎日のよい習慣を実践してください。 途中で立ち止まり、熟考し、再評価し、選択することです。 Intentional living は、大陸横断紀行によく似ています。 走行中に車を停め、燃料を補給する必要があ...