2016/09/28

この混乱する世界の中で






~しかし、ひとりひとりに、イエスは働かれている…全てを新しくするために。~




スチュアート・ブリスコー Stuart Briscoe



私は、言い争いをするのに人生の多くを使いすぎてきました。
そこそこ歳を重ね、少しは賢くなった今、私は論争に人生の時間を用いるのは最善の方法ではない、という結論に至りました。

その代わりに論争の要因を探すようになりました。
そして驚いたことに、少なくとも一つの共通点があることがわかりました。
それは、「この世界は混乱している」
ということです。

本のページをめくるように未来を見るなら、私たちは同じか、さらに悪い状態にあるということを感じます。
現在のニュースには、あまりよいものがありませんから。

人々はこのことに同意しますが、この世界が混乱しているという共通認識への反応はさまざまであることがすぐにわかるでしょう。


1.世俗の、人間中心の見方をする楽観主義者。

この人々は次のように言います。

「混乱していない時代があっただろうか?
歴史を見るなら、それは争い、痛み、戦争、流血、憎しみ、自滅的な行為の長く悲しい一つの話である。
人間は生き残ってきたし、私たちもそこを何とか乗り越えている。
この世界はこれまでよりもよくなっていくのだ。
私たちは乗り越えてきたのだから!
だからあきらめないでいよう。
私たちが歴史を書き換えるのだ!」


2.悲壮で絶望的な、悲観主義者。

この人々は言います。

「世界はめちゃくちゃで、どうしようもない。
見聞きすればするほど、私は落ち込んでしまう。
全てが過ぎ去ってしまえばよいのに。
どうしてよいか、私にはわからない。」


3.自分に夢中で、ナルシストな自己中心者。

この人々は次のように述べます。

「この世界は混乱していて、私ができることは何もない。
だから何もしようとしなくてよい。
私に関しては、世界はどうなってもよい。
世界の中で、私が気に入る、私だけの、快適で、安心できる小さな場所さえあれば、何も気にしない。」


しかし皮肉なことに、共通に認識している現実への、これら3つのさまざまな反応に共通するのは、同じことを見落としています。

それは、神を無視していることです。
これは致命的なミスです。説明しましょう。


神は、被造物がよく生きるようにと心から望んでおられ、堕落や崩壊や自滅を、じっと座って眺めておられるわけではありません。
実際に、神は
「見よ。わたしは、すべてを新しくする。…書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である(黙示録21:5)」と言われます。
神は言われただけでなく、これが完全に正しく、信頼でき、後の人々のために記録すべきことだとされました。
つまりそれは、あなたや私、そしてすべての人のためだということです。

このことばは現代の人々の注意を引くものであるはずです。そして、よく読むと、「新しい天と地」(黙示録21:1)を含んで「すべてを新しくする」のだという約束を見出すでしょう。

そうです。
世界は混乱していますが、まったくコントロールを失っているわけではありません。
甚大な災害を自ら引き起こす方向に向かっているのでもなければ、人間の想像にすぎない力によってコントロールされるという保証もありません。

事実は、聖書のことばによれば、神が世界の出来事に深くかかわっておられるということです。
神は起こっていることを完全にご存知です。
神はすでに実行中の計画をお持ちです。
そして、神は静かに働いておられ、神の支配のもとにある結果へと、すべてのことをたゆみなく導いておられます。

新しい天と新しい地は義によって特徴づけられます。
それは、全てが正しくされる、という意味です。
全てが、ついに、あるべき状態になるのです。
そしてこの理想的な新しい創造の世界は、「新しく造られた」まったく新しい人々で満たされます。

第2コリント5:17には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。
神はこの瞬間も、人々をご自身のところに招かれ、「新しく造られた者」としてくださっています。

彼らの古い人生は忘れ去られました。
なぜなら、十字架の主キリストのうちにあるのですから。
また、彼らの新しい人生が始まりました。
なぜなら、聖霊となって内に住まわれる復活のキリストが、新鮮な力を与えてくださるのですから。

この事実はとても重要であり、神が彼らを「キリストのうち」にあり、それゆえ「新しく造られた」とみなしてくださるのです。

この混乱した世界の未来について、キリスト者の描く幻は、現代のこの世の多くの人の見方とは全く異なっています。



では、神は今の中間状態で何をしておられるのでしょうか。

この世界はずっと混乱していて、まだ新しい創造物は現れていません。
だからこの壮大な幻がまだ実現しておらず、完成に至るにはまだ道のりがある、と考えられます。
私たちは神様が実際になさっていることに注意深くあらねばなりません。

使徒パウロはコリントの人々に神が「キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせない」と述べました。
神はひとりひとりに、それをしてくださっています。
神はこの世界によって傷つけられた人々と、この世界をひどく傷つけた人々の双方を招き、罪をゆるし、回復させ、変革させ、彼らを「新しく造られた者」としてくださるのです。

神はあがなわれた罪びとを招き、ゆっくりと、しかし確実に、新しく造られた民へと変えてくださっています。
一度にひとりずつ、なのです。



新しく造られた者とは?


新しいライフスタイルをもっています。

第2コリント5:15には「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」とあります。

新しく造られた人々は、キリストが完全なゆるしと新しいいのちのために何をしてくださったかという光に照らせば、ゆるしと悔い改めが必要な古いライフスタイルにはもどれないということがわかっています。
彼らは、これまでの無責任な生活を続けるためにキリストが死なれたのではないことを知っています。

むしろ、キリストがしてくださったことに感謝し、勝手気ままな古い生活から離れ、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のため」に生きたいと思うのです。
彼らは、だんだんと主である方の生き方にならった人生を生きることを選ぶのです。
無私で、愛に満ち、あわれみ深いしもべとしての主のご生涯に。

彼らはまず神を神とし、キリストを主とし、自分自身を愛のある、信頼できる、従順な弟子、キリストのしもべとすることに関心があります。
彼らは、「すべてを新しくしてくださる」という神の永遠の目的に加わることに価値をおきます。

あなたはこうした人々がだれかわかるでしょう。
人生は「彼ら中心」のものではなく、「キリスト」中心のものなのです。


新しい態度で臨みます。

多くの人にとっては、人間関係が混乱しているので、この世界も混乱しているのです。
ただ、他者とうまくやっていけないのです。
それが次第に影響を及ぼすのです。

悪い行い、不適切な反応、ゆるせない思い、不和とけんか、嫉妬とねたみ、執念深さ、陰口…。
こうした機能不全な行いのリストはそのまま悲劇の数と同じです。
そして、こうした行いにいかに陥りやすいか、私たちは誰でも知っています。
なぜなら、私たちは互いをそのように見、反応する者だからです。

パウロはそれを「人間的な標準」と表現しています。
彼は「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません(Ⅱコリント5:16)」と書きました。

つまり、こうです。

新しく造られた人々は壊れた人間関係と無秩序な文化のただ中に植えられた。
しかし、彼らはもはや人間的な視点で人々を見ることはない。
キリストの愛が彼らに教えてくれたのだ。
もし、彼らが見つけられた状態でキリストに愛され、キリストは他の全ての人も同じように愛しておられるのなら、このゆるされた罪人が、どうして主ご自身よりも劣った態度で他の罪びとを見ることができるだろうか。

その通りです。
彼らは、人々をキリストの目を通して見始めるのです。



新しい召しについて分かち合います。


パウロはもう一つの特徴についてもさらに書いています。今回は召しについてです。
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです(Ⅱコリント5:20)。」

使節は、自分の国のために仕える人です。
自分の国の代表として、自国を離れて他の国に住むように召されています。
そこで敬意を払われ、誠実に自国を代表し、代理となって語り、異国の環境で自国のためになるようにふるまいます。
簡単なことではありませんし、専心、技術、コミットメント、誠実さ、一貫性が求められます。

パウロはこのたとえを、新しい人の行いと召しを表すのに用いました。
新しい人は、混乱した世界で代表として生き、王なる神の国である新天新地を告げ知らせる人として生きるのです。

ですから、この世界の混乱に直面しましょう。それで終わりではないのです。
神は働いておられ、神の目的が明らかになっていくのです。
私たちはひとりひとりが、神の働きの一部として召されているのです。

私からあなたへ Between You and Me


           
 Jill Briscoe ジル・ブリスコー

私たちができるだけ避けるべきことの一つは、「なぜ(Why)」かを探ろうとして、あまりにも多くのエネルギーを浪費することです。

「でも私にはとてもたくさんの疑問があるので、『なぜ』か考えないなんて不可能です」という声が聞こえてきそうです。
けれども、神様に違った尋ね方をすることは可能ではないかと思います。
「なぜ(Why)」と問うかわりに「どのように(How)」と尋ねてはどうでしょうか。

マリヤはガブリエルが現れて幼子を産むと告げられた時
ーただの赤ちゃんではなく、全てのユダヤ人の女子がその子を産む特権を願いましたー
「なぜ」と問わずにむしろ「どのように」と尋ねました。

彼女はもちろん「なぜ?なぜ今?なぜここで?」と尋ねることもできたでしょう。しかし、彼女はただ「どのように」と問うたのでした。
「この信じられない状況の中で、どのように神のみこころを行うことができるのでしょうか」
それに対する答えはとてもシンプルで訪問した天使から与えられました。
「聖霊によるのです・・・」
すぐにマリヤは喜んで「私は主のしもべです」と答えました。



私はそのような模範的な行動になるようにと、自分の反応を訓練してきました。
夫がリーダー・伝道者として世界各国の旅をしなければならなかった時、私は「なぜ今なの?」と問いたい気持ちになりました(当時、私たちには幼い子供と介護が必要な母がいました)。
「なぜ、私を助けてくれる肉親のいないこの地で・・・なぜ?」と。

葛藤を覚えましたが、やっとの思いで私は尋ね始めました。
「どのように?この難しい状況で、どのようにしてやっていく力を得ることができるのでしょうか、主よ。
どのように、3人の幼い子供たちの父親兼母親を務めることができるでしょうか。」

「なぜ、彼のチームの他の人が代わりに行ってくれないのかしら。なぜ、夫でなければならないのかしら。」といった疑問が頭をもたげてくるとき、
私は「もし夫でなかったらどうだったでしょう。主よ、あなたが用いようとされる人物と結婚できた特権を感謝します。この時に、どのように協力者となれるでしょうか。
どのように父親兼母親を務め、自宅がいつもどおりだという平安のうちに彼が出ていくことができるでしょう」と考えるようにしたものです。

神様の、私の「どのように?」という問いへの答えはいつも同じでした。
それはマリヤがガブリエルから受けた答えでした。
聖霊が私をおおってくださり、聖霊の力で試練に向かい、みこころがなされるのです。

ですから、次回「なぜ?」が浮かんできた時、かわりに「どのように?」と言えるまでの「待合室」に駆け込んでみてください。
それは私たちの心の内にある「静まる場所、待合室」です。
そこで神様を礼拝する時、「なぜ」を神様の足元に置くための助けを得るのです。


Intentional Living:神の計画を意図的に生きる(5)

5 ふりかえり、 再評価し、 選ぶ。 主とともに歩みながら、目標を設定し、毎日のよい習慣を実践してください。 途中で立ち止まり、熟考し、再評価し、選択することです。 Intentional living は、大陸横断紀行によく似ています。 走行中に車を停め、燃料を補給する必要があ...